EP.一夜 明日ありと、思う心の仇夜景色

 郊外から更に街の外れ、人気のない道端で少しだけ荒い息を切らしながら思春期を終えたであろう少年は、街外れだからこそ見える星空と、遠くに見える人々の喧騒の証という煌めく夜景を眺める。

 日中に聞こえる人々の喧騒と、そして絶えず人は活動している事を知らしめる乗り物の騒音から切り離されたこの状況こそが、いつだかに失った懐かしい環境に最も近い感覚を覚えることができる、しかしそれが凡そ夜の8時間だけというのは少し切ないことだが、それでも少しだけ、あの頃に戻れたようで気分は晴れる。

「車は……来てないよな?」

 少年は周囲を確認する、時間は深夜であり反射材も用意していない、そんな少年が車線の真ん中に佇んでいるのは車の運転手からしてみれば軽いテロ行為だろう。

 住んでいるか住んでいないかもわからない家が各地に点在し、人が移動している姿など昼でも中々お目にかかれない、こんな場所でありそして真夜中そんな車道のど真ん中に人なんているはずがない、どんな運転手だってそう思う、自分がその立場であったとしてもそう思う。

 車が通るかもしれない車道、そんな状況化で少年は、体を大の字に広げて地面に寝そべり、必然と視線は空へ向き星や今は見えない月を見上げる、その瞬間だけはまるで少年がこの世界の神様になったかの様に、自分だけの時間が許される。

 空を見上げていたのは長くても数分に過ぎず、長時間見惚れているなんて事はあり得ない、その数分が幾倍にも感じるほどに少年の心拍は高鳴り続ける。

 それは例えるならば軽い時間跳躍にも似た感覚だった。

「自分思考以外が世界ごとスキップされたような感覚、確かに残る気分の高揚と、確実に行われた心肺組織の行使、そんな事ある訳ないのに。どうしてだろうどうして逆は起こり得ないのだろう」

 青年は独り言を呟いてみる、誰にも聞こえない自分に言い聞かせるような独り言。

 神様であれば、この独り言も叶えてみせるのだろうか?そんな下らない疑問を浮かべた少年は自身の事を鼻で笑ってしまう。

 真っ暗の空、地面の様にどこまでも続く星空、そしていつもあるはずの月が無い空、いい景色だと浸りアスファルトで造られた道路に寝そべり、少年はただ考える。

 昼は触るだけでやけどをしそうなほどに熱された鉄板というイメージとは違い、肌に触る温度も、そして妙にザラザラした感覚も何もかもが昼とは違って心地よく感じる。

 ポケットに入れたスマートフォンがバイブレーションと共に、賑やかな音楽を響かせる、刻限を知らせる鐘が、補導のスリルがある未成年の深夜徘徊は一旦ここまでと告げていた。

 少年は非行少年少女が蔓延る駅前に向かう為に踵を返す、なんども景色に見惚れ、そして何度もそんなこと起こり得ないと示される事、今日は少しそれに抗ってみたい気分だった。

「今度来た時も寝転がろう、もしかしたら次こそは」

 やはりまた聞かれることのない独り言を口にし、少年は歩みを進めるまるで、自分の足ではないように子気味よく、まるでステップを刻むように進み続ける。

 郊外、それも街の外れ、そこには確かに少年が居た、けれど今は誰かが居た痕跡は存在しない、残るのはたった一つの一筋の光跡、真っ赤な光跡が誰かが進んだ道を示すように残っていた。


 自宅に戻る為に少年は人気もない、名前も知らない道路を駆けて駅へと向かう。

 終電にはギリギリ間に合うはずそんな安直な考えのもと、爽快に駆けていくと共に視線の端に映るのは、その日一夜限りの凌ぎを求める女性たちの姿や、行き場所のない子供たちの群れを少年の瞳は捉えていた、どいつもこいつも世界の所為、社会の所為だとのたまいながら、その癖自らを破滅への道に向かうことを望んでいるような行動をとり続ける。

 少年少女らのその行動を、果たしてギャップという一言で片づけてよいのだろうか?

「気持ち悪いな、あれ」

 本質的には同じ穴の狢だというのに、少年はまたもや独り言を呟く、自分はそこまで落ちぶれていないという空虚な優越感と、不安からくる焦燥感が露になって生まれた、今度は誰にも聞かせない自分を守る為に呟いた、同族嫌悪を隠す為の独り言だった。

 そんな状況から早く逃げ出したいと思ったのか再び少年の足は動き出す、足早に駅へと向かい、そして誰かとぶつかった。

「すいません……大丈…夫?ですか?」

「あ……、いや大丈夫……ぼ、僕の事は気にしないで……」

 少し強く衝突してしまったからこそ心配し、話かけるが相手の男はこちらに見向きもせず足早に、まるで自分と同じく逃げるようもしくは慌てているかのように見えるその動きを見せながらその場を去り、退廃的な少年少女らの方向へと歩みを進める。

 今考えれば、この時からこの男の行動はどこか不自然だったのだろう、それを見過ごし汰自分が相当にその場から逃げたかったのがよくわかる。

 春売りを買ってみたいと思った、ある種のモノ好きだろうか?そう思いながらも男の動向が気になったが故に少年は、駆けあがった階段の上から男の行先を見続ける。

 ある少女に話を掛けた、ここからでははっきり見える筈のない彼女の顔がよく見え、そして聞こえる筈のない声が確かに聞こえた。

 見知った顔だったからこそ遠くからでも気づけたのかとも考えたが、生憎少年の知り合いには、あれほど魅入ってしまうような顔をした女性も居なければ、聞き惚れるような声の持ち主に心当たりなどない、だからこそ彼女に少年は魅入った。

 本来であれば彼女がこんなところに居るなんて事、そのものが似合わないと断言できる高嶺の華にも見える彼女の存在に。

 肩を出した白い服と、ぶかぶかのルーズパンツ、一見ではずぼら、あるいは露出が好きな人にも見えたが、彼女の持つ雰囲気がそれを否定する。

 精神性すら表しているようなストレートの黒髪、それはどこまでも引き込まれような全てを飲み込む漆黒の髪を風で揺らし、日本人特有の童顔的な幼さと成熟した女性を両立したと例えるしかない程整った顔立ち、そんな彼女が件のやたら慌てているような男性と会話を交わしている。

 彼女に比べれば少し青みがかった黒目と、彼女とは大違いの癖毛が目立つが祖母と同じ濡烏の髪色、何もかも見た目だけで言うのであれば正反対、きっとお家柄というモノも正反対であろう。

 そう偶然にしては出来過ぎている正反対さ具合に、どこか心が躍るような好奇心を覚える、きっとこれはそう非日常感というモノだ。

 だからこそ彼女が起こす一挙手一投足を見逃しまいと、少年の瞳は全てを捉えていた、何一つ語弊なく彼女に起こった全て出来事の全てを捉えていた。

 〝首〟恐らく大動脈がある辺り、そこを切れ味の鋭い包丁で、まるで野菜を切る様に簡単に切り口が作られる。

 真っ白な洋服が真っ赤に染まる一部始終という、一瞬の事を少年の瞳は切れ目も逃さず捉えていた、徐々に力なく倒れる彼女の姿を、この瞳に焼き付けるように、遠くで見ていることしかできなかったのだ。


 ◆


 ある少女はこの家が嫌いである、無駄に家の中は広く道を間違えると全く違う所に付き、一度庭に出るとこの街には不釣り合いすぎる自然体験を自力で作り上げた造園が広がり、どこをとっても無駄に敷地も面積も古く、なのに定期的なメンテナンスと改良によって一向にガタの来ることのないこの家が嫌いで仕方ない。

 けれど幾ら生まれを嫌っても、生まれを憎んでも、少女は他の人に比べれば憧れる程に裕福な家に生まれてきた事には変わりなく、文字通り神に傍からすれば神に選ばれたと言われも過言ではない少女はそれを知っている、だから少女はこの言葉を誰かに話さない。

 今日もいつも通りの朝だった。

 今日の終わりを告げるように、太陽が顔を覗かせ、私の瞼は開く。

 早朝5時、カーテンの隙間から陽の光を浴びながら体を起こし、大して眠たくもない眼を擦りながら、寝巻から着替える為に行衣を手に取る。

 行衣に袖を通し、階段から軋むような音が鳴らない事を心がけながら丁寧に下り、そしてまた音が鳴らぬよう襖を開け、畳を渡り、縁側につながる扉をずらし、そうしてようやく外に出る。

 草履を履き、広い敷地の一角にある水浴び場に足を運ばせ、水を汲み上げその水は身を清める為にと、まるで自身が神への献上品、贄に選ばれたような感覚を持ちながら、本当に清まっているのかも証明する手段を持ちえないが、少女は水を浴びる事で目を覚ます。

 ジトジトと行衣が肌に纏わりつき動きづらい、女性らしさを強調する為に短髪にするという事を禁じられた長い黒髪は水によって束に固まり口や鼻に纏わりついている、早く着替えたい、早く髪を乾かしたいそういう思いのままタオルで体を拭きつつ、少女は庭に作られた造園の隙間に見える隣の洋風の豪邸を遠くに見つめてぽつりと羨むように呟く。

「贅沢な悩みだけど、もし私があそこの家の生まれなら……」

 少女の住む家と同程度の面積を誇る、確かで格式のある名家なのであろう、そして家主の考えは基本的に柔軟な思考を持っている、庭を見るだけでそう推測ができる。

 一面に整備された芝生と、庭師によって綺麗な剪定が行き届いた木々の数々、区画ごとを区切る為の生垣と、鉄の柵。最大限に少女の家だけが浮かないようにするための配慮か、少女の家と面している部分だけは植物園のような造りをしていて、それ以外にも運動場や何もない芝生もある。

 凝り固まった思考だけではなく、柔軟に必要なモノを必要な区画用意し、必要な分だけを造る、合理的、言ってしまえばそれの徹底だろう。

 贅沢な望みという事は理解している、けれど羨ましいと今の自分の状況を見てもそう思わざるを得なかった。

 滴る程の水滴はタオルで拭き落とし、先ほど出てきた縁側へと再び向かい、支度部屋に足を踏み入れる。

 髪を乾かし、今日着用する衣服を整え、そして乾いた髪に手櫛と木櫛を使い、家に決められた通りの少女が下手に弄らなくとも整うストレートの髪型に整える。

「巻いてみたいなぁ髪……、怒られるのが分かっているからこそメンドーくさいけど、それに夏になると蒸れるし、短くもしたい…」

 いつかやる、きっといつか将来は実行する、それを実行しない限りその未来が来ないという事は分かっている、縛られている現状ではそんなことをしようとすら思えないのが、少女自身が自らを嫌だと思う所である。

 結局は現状に甘んじている、学校に来ていく為の洋服だって幾つもの用意された試練のような何かを延々とクリアし続け手に入れた代物だった、結局本気で願えば自分の力で叶える事は出来る、ただそれに付随する面倒事を嫌っているだけ。

 白色のトップスと黒色のスカート、単調な二色だがこれが一番無難な選択だった、無駄に派手だと何を言われるかを想像するだけでも、厭だ厭だと首を振りたくもなる。

「準備おっけー、あとは朝食を食べて学校に……行く…だけか……」

 この家から出られる時間が来る、それは良い事のはずだった、けれど少女は学校にも正直に言うと行きたくない、行くのが凄く億劫だ。本当に自分は我儘な人間だと呆れながら、少女は時間が過ぎるのをいつも通りに待っていた。

 通学の為に電車に乗りこむ、人が混みあい、当たり前に車内で人が混雑するとどこからか這い寄ってきた手がまさぐり込むように誰かの臀部を触っている、様な気がしたが存外こういうモノは気のせいである、その触っている掌の指を受け入れながら、指を人間の可動域から逸脱させて折り曲げる、そうすればまさぐるような真似を以降はしてこない。

 長くもない時間揺らされ、目的の駅に到着すれば、ようやく人混みからの解放が許される。

 ふと視線をあげて道に沿った先にある桜を見る、見頃の終焉を告げるように自ら花弁を散らしていく姿がここからでも確認できる季節、夜桜よざくら鮮華せんかの高校の2年生が始まってからそう長くは経っていない、出会いの季節であった。


 少しだけ長く感じる電車通学を終えて、高校へと足を向ける。

 特段と楽しみなことは無い、私服での登校が許されているからといって全てが自由なわけでもない、強いて言うのなら自身の家が名家なだけあってコネを作り、将来の設計に安心を得たいのか、それとも友人が日本有数の資産家であるというステータスを掲げたいのか、鮮華の知ったことではないが、そういう人間も居る、そして上っ面だけの好意を抱いている人間も居れば。

「あ、来た来た夜桜さーん、また上靴が捨てられないように見張ってたよー」

「そんなことをしてでもお金でも欲しいのかな?」

 こちら嘲笑する表情を隠すこともせず、恩着せがましく見張っていたなどの虚言を吐き捨てる目の前の彼女には敬意を表するし、まるで夜桜鮮華を親の仇であるかのように忌み嫌う人間の執念を違う事に使えばいいのにと呆れもする。

 前者が鮮華という人間の価値を羨む人間であれば、後者はという夜桜というステータスを僻む者達、高校で夜桜を囲う人間の8割が前者と後者のどちらかに選別され、残り1割が次の自分が標的になることを恐れ、傍観を決める者たち。

「別に?でもそういう風に敵を作っても良い事ないよー、トイレで水をかけられたり、上靴は捨てられたり、この前はジャージに落書きされたんだっけ?」

「お気遣いどうも、けれど必要ないよ。それに君たちも知っている筈だ、神は細部に宿る、私はこれを神はどの状況化でも私達を認識していると同義だと思うんだ、神は隣人を自分のように愛せというけれど、君たちは隣人ではないし、まぁ君たちが俗にいう天上に迎え入れて貰える事を、私は祈っているよ、影ながらね」

「あっそう……、お気遣いどうも、でも流石夜桜のご令嬢。神の如く下賤な私達を見ていてくれるなんてまるで主を気取っているのかしら?随分傲慢ですこと」

 主あるいは神、そういう存在が居るという事を信じられる事は美徳であり、そしてある意味で救いを得られる、この世界に置いて神を信じていないと言える人間は恐らく0.01%にも及ばぬ程に少ない存在だろう、鮮華も神の定義はさて置くとしても、凡その教えというのは理解している、理解していても全ての人間が同じ教えを受けて同じ結論には至らない、その証明がこのように日常的に鮮華を通してよく行われることにも少し飽き飽きしていた。

「主、あるいは神をどう認識するか、それは記された神に近しい方を、私達は主や神と崇めているけれど……まぁどうでもいいや、……っとと」

「あ、前見てなかった、ごめん」

 そして最後の1割は、鮮華の目の前をたった今ずかずかとぶつかりながら歩いった、本当に無関心な人間、ある意味で人間的な争いに興味を持たない存在の彼らは教えに従順ともいえるだろう。

 だが無関心な彼らは教えに従順なのではなく、基本的に何かに熱中している傾向がある、だからこそ面倒事には関わらないし、しっかりと自分という物を持っているからこそ、夜桜鮮華というブランドを求めない。

「今の男の人、髪色が凄く綺麗だ。やっぱり染めたりしているのかな?」

 そんなどうでもいい事を考えながら、少女の学校生活は始まり、緩やかに流れていく。

 ある時は、鮮華に興味を持つ人だかりに囲まれて……etc.ある時は私を嫌う群衆に絡まれて……etc.夜桜鮮華が求める自由というのは、やはり学校ではないのか少し肩を落としながら、昼食を口にする。

 やはり周囲からの視線は当然の如く集まる、たが広間で集まる視線は基本的には、鮮華を見ている訳ではなく、夜桜を見ていることくらいは理解しているつもりである。

 夜桜グループ、古くは江戸から飛脚として運送を担ってきた過去を持ち、日本の貿易に夜桜在り、そして海運と言えば世界でも夜桜と呼ばれる程には知れ渡っている、貿易兼海運の事業を主に運営しているグループであった。

 夜桜の家が嫌なほどまでに日本らしくという指針なのも、海外相手に事業を進めるからこその、教育方針なのだろうことは家訓にある『日本人である事に、誇りと誉を持つべし』という仕来しきたりを見れば、敗戦国だから、あるいは日本はアジア系列だから、もしくは黄色人種だから、それでなくとも民族的に背が小さいから、理由は考えようと思えばいくらでも思いつく。

 食事の片手間に大学試験への対策問題を解きながら、改めて夜桜鮮華という人間が何故このように扱われるのか、その理由がよくわかる。

「勉強はできて当然、スポーツもできて当然、どれもこれも上から数えたほうが早いけれど、結局何かの頂点に立つ事は未だにできない……やはり天は人に二物を与えないのかな」

 周りからの評価はどうであれ、鮮華は言葉通り鮮華の努力でのし上がってきた存在である、傍から見れば器用万能に見えるかもしれないが、その下地には途轍もない努力という物を積み重ねてきている。

 しかしそれでも鮮華は1番を取れていない、小学校から全国テストでも、中学の頃に真剣に取り組んだ陸上においても、どんな物においても鮮華は全国でも上から数えた方から早い位置に存在している。

 それは生まれが恵まれすぎた故の罰なのか、その生まれだからこそ与えられないのか。

「神様にでも頼めば、いつかは一番を取れる……のかな?」

 進めていなかった食事を進め、次第にチャイムが鳴り響く時間にそして気づけば下校をし、家に着く同じことを毎日繰り返す日々、窮屈な日常は変わることはあらず、鮮華の日常は夜を迎える。

 家に帰ると、母親に今日の高校での行動を説明し、夕食ができるまで再び自室で勉強をする時間を迎える、そして夕食後は湯船につかり髪を乾かし、そして丁度9時17分、父は夜桜鮮華という子供が就寝しているかを確認する。

 その合図を最後に鮮華の部屋は誰一人近づかない、ある意味での密室あるいは軟禁状態が訪れる。


 そして待ち望んだ夜が来る。

 カーキー色のバギーパンツと、白い無地のオープンショルダーのトップス、夜を忍び遊ぶための仮初の人間、夜桜家の第二子にして長女である夜桜鮮華ではなく。

 家に居場所がない系の女子高生である、ただの鮮華として隠れながら金庫の中の金庫という秘策まで使って用意できた、唯一にしてオンリーワンのコーディネートがこれだ。

 そのコーディネートを着用し、窓に手をかけ自分にとって都合のいい場所に配置された、まるでそのために使ってくださいと言っているような木々を足場に飛び移り、家の敷地外へと降り立つ。

「今日はどこに足を運ぼう?」

 夜桜鮮華にとって一日の始まりは、朝ではなく夜からだった。


 高校生になるまでの夜桜鮮華は、その除ける筈もない要因である家柄を除けば、基本的に怠惰で面倒くさがりな普通の少女であった。

「あはは……それでー?」

 夜桜鮮華が夜を跋扈ばっこし始めたきっかけを語るのなら、それは中三の修学旅行である、家族以外で行く初めての遠出。

「えーそれは流石に気持ち悪いねー」

 そして9時過ぎには寝ていた普段の自分からは考えられない程、遅くまで起きることが当たり前だった三泊四日の旅。

「私?私はそういうのは興味ないなー、面倒だし」

 そして最後の要因は外泊最終日の昼間に、ある少年が鮮華を夜の就寝時間にホテルの外に呼び出した事、それがきっかけだった。

 それは思春期ならば当然に起こり得る日常で起こった、学年でも1,2を争うレベルの人気を持った少年が鮮華に告白をする、あえて誰もが口にしない。だが誰もがホテルを抜け出してでも結末を見守るような、最後を飾るにふさわしいイベントに他ならなかった。

「そういうのはいいよー、私ってさ面倒くさがりだから、興味ないんだよね」

 場が凍るというのはこういう状況を言うのだろう、と鮮華は改めて思う。

 誰かに合わせる事が苦手だった、実行しようとすることは全て自分の手によってのみ叶えられるというのが、自身が、否、幼少から躾けられる教えだったからだ。

 だから彼の言い分も、彼女らの言い分もよく理解できないのだ。

「あのさぁ、この際だから言うけど、なんか鮮華って自分は別に普通だけど、ウチらがそういうからそうなんだっていう、あんていうのかなぁ達観してるっていうの?なんか自分はウチらとは違う感出ててなんかうざいんだよね」

 あぁ似ている、あの時も今日も私にとっては唯一の自由である最高の夜は、他者に責任を押し付けて自分が変わるという選択肢を持てない、人間達によって最悪な夜になっていく。

「別に…そんなこと思ってない……けど」

「じゃあさぁ、なんでパパとかにお金貰おうとしないの?鮮華って案外お嬢様だったりする訳?家に恵まれてないとか行ってなかったっけ?」

「恵まれている家庭だとは……思っているよ。私には合わないだけ……でもそれってそっちが言う話と同じじゃないの?」

 こんな事を言いたい訳ではない、けれど何故か自身の口が軽くなる、そこまで苦しいと叫ぶなら、変わろうとしないのは何故なのか、変わる手段は人によって幅は狭いかもしれない、けれど変わる方法ならば、人である限り幾つも可能性はある。

「なにその言い草……お前さぁ!お前は恵まれている人間なんだから、分からないんだろ!ウチ達の苦しさがさぁ!お前に説教されるためにウチらはここに居る訳じゃない!居場所が無いから」

「そう…居場所が無いんだ……へぇーそうなんだ、居場所が……ねぇ」

 ただその言葉で私の最高の時間は、最悪に落ちる。月が欠けるという事象それが、自らの心情を表しているかのように、夜桜鮮華という人間を怠惰にしていく。

 居場所が無いから、ここに集いここで慰め合い集う事に気持ちよさを覚え、そこへ依存する、居場所を無くしているのは彼女ら都合で自業自得だというのに、鼻で笑ってやることもできない、自らの器に小ささに嫌気がさしながらも、ただ夜桜鮮華は相手を冷たく見つめる。

「んだよッ!その目、お前ぜってぇウチらの事、ずっと馬鹿にして見てきたんだろ!殺す!ぜってぇ殺す!お前みたいな恵まれている奴がウチらを哀れでんじゃねーよ!哀れむくらいなら私達の求める場所を寄越せよ!神様みてーにでけぇ面で哀れむんだったらよぉっ!」

「あぁいや、今初めてそっちを哀れんでいるトコ、そう……だね、多分そっちが思っている以上に私は、もう本当にどうでもよくなっちゃったね…帰ろう、それじゃ精々いい夢を」

「オイ!待て!神様気取りで私達を可哀そうって見てる癖に、神様は私達に何もしてくれないじゃないかっ、はん!神の教えなんて馬鹿だ!何が」

「真面目に生きてみたら、いつかは報われるんじゃない?無理だろうけど」

 鮮華は後ろ手に手首を揺らし、ここまで数カ月間絡んできたグループに分かれを告げる、家からも案外近くて、ある程度はっちゃけても許される場所だったからこそ、こここそが夜桜鮮華の自由の象徴、そう思っていたのだが違った、少し残念だ。

 しかも気分までも最悪のどん底まで落とされる、嫌味の一つくらいは許されるだろうか?それとも彼女の言う通り、彼女が勝手に神気取りと勘違いした責任を取らなければ、鮮華という存在は死後許されないのだろうか?

「あ、すいません、少し考えご……」

「し…知ってる?き…君みたいな…こ、子供をね、しゃ…社会のお荷物だと、僕、僕は思うんだ、だ…だからさぁ」

 普通というには少し小太り気味で、人混みが苦手なのか顔が汗ばみ、ここも大概だが常識的な判断をするのなら不潔な恰好、そんな男が鮮華に問いただすようにこちらの話など聞こうともせずに話を遮り語り出していた、鮮華は応対をする素振りすら見せていない、けれど男の独り言は続く。

 独り相撲、あるいは変な人。それ以外に鮮華が抱く感想はあらず、だからこそ関わるべきではないとそのまま横を抜けようとするが、その時ふと朝の学校でぶつかった少年に似た面影を持った人をこの瞳は認識した。

 初めて私を知っているかもしれない人を、私の自由を脅かす可能性を持った存在に出会ったことで、私の時間は少し静止する。

 脳内で思考が一切静止しない、考えすぎて動くことができない、自身の状況をこんなにも表すことさえできるのに、鮮華の時間は動かないまま、その場で立ちすくむ。

 時間にしては一瞬だったのかもしれない、その一瞬が文字通り命取りになった。

「だ…だからね、ぼ…僕が神に代わって……、き…君たちをだ…断罪するんだ!」

 男がこちらにパンチをするかの様に、腕を前に突き出す。それは夜桜鮮華の横を通りすぎることはなく、首元に命中する。

 ただ命中したのは拳ではなく、男の持っている鋭利な刃物であり、それを認識した瞬間に激痛が走る。

 全てがゆっくりと見える程に研ぎ澄まされた思考の中で、その刃物はゆっくりとゆっくりと鮮華の首から抜きだし、そして今度は腹部に鈍痛が走る。

 だがそれ以上に心臓の鼓動に合わせて、首と口から垂れ流される血そのものを、もう既に遅いと理解しながらも必死に抑えて止血を試みる。

 試みるが、もう体に力も入らない、夜桜鮮華の命はここで終わる、そう確信できるほどにすべての状況が詰みの盤面を示している。

 自分の体制すら維持できずにただ、前のめりに倒れていく、悲鳴すらも上げられない程に体はもう自身の制御下を離れていて、全てを悟らせるには十分な時間が過ぎている。

「キ……ィ……ァ………レ…ぁッ…あ………ォ?」

 それでも鮮華の思考はただ視線の先に居る、一度面識があるかもしれなかった少年の姿、他の何も見えないのに、夜桜鮮華は確かにその少年を見つめていた。


 ◇


 目の前で人の命が終わる、その光景を少年は直接見たことは無かった。

 親しい人が死んでしまった事は何度もある、祖父母、学校の友人達、学校の先生、それと誰かも分からぬバラバラの肉片。

 祖父母は自然災害に巻き込まれ、次に顔を合わせる時には既に火葬が済んでおり、次に出会ったのは両腕に収まる程の骨壺と額縁に飾られた、二人の笑顔の写真。

 学校の友人達はそもそも人様に見せられない姿だったのだろう、それは間違いなく歴史に名を残す最悪の事故、当たり前のことだが友人の姿なんて見る機会すらなかった。

 それと誰かもわからぬバラバラの肉片は本当にただ肉片だ、カラスがやたら集っていた中にあった人間の首から肩にかけての体と、薬指だけが欠けた右手、当然人の死体ではあったのだが、その現場を直視していたわけではない。

 だからこれが初めての機会だった、1度も望んだ事のない人が死ぬ様を見るのはこれが初めての事だったのだ。

 首から規則的に飛び出す血液と、口からの吐血、そして足元に広がる血だまりの中で、彼女は力なくこちらを見つめながら地に伏せた。

 誰かの甲高い叫び声が響き渡る、動かない民衆を押し避けて、力なく倒れ虚ろな瞳をした彼女を少年は見下ろしている。

 目の前で血を浴びた女性の絶叫、それをなんだなんだと見に来る野次馬に、そして今の状況を理解せずただ一個のきっと人間の脳よりも格段に賢い板をこちらに向け、この状況を撮影する馬鹿者たちに、そして彼女と同じように刺されていく恐らく同年代の少年少女ら。

「止める…、いや一先ず隠そう。例え死体であっても、安易に人目に晒されるべきものではない筈だから」

 少年は羽織っていた上着を、物言わぬ骸になってしまった彼女を覆い隠すように、彼女の上に羽織らせる。

 居ないと信じているが、もしそれを退かせようとする馬鹿者が居るのだとしたら。

 彼女の体に誰か手が近づく、細い手だった。まず間違いなく女性であろう、だがそれに気を使っている余裕を持てる程少年は人として完成されていない、だからこそなんの躊躇いもなく、その金髪に脳みそが欠片程のサイズしかないであろう馬鹿者が声を発した。

「痛い、痛いって!何すんのよッ、もう離しッ!……アッ……ングゥッ!」

 ある一人の女性の手を少年は躊躇いもなく、人間の体が許容する方向とは真逆の方向へと曲げる。女性から声にならない声が漏れ出る、まさか自分がこんな目に遭うとは思っても居なかったのだろう、自分は死体を撮っているだけ、そう言いたげな顔だった。

「アンタッ!腕っ、どうしてくれるの!犯罪よ、犯罪!訴えてやるから!名前言いなさい!」

 少年は考える、彼女の名誉を守る為の行動と、傷害罪どちらが重たいのだろうか?どちらが優先されるべきなのだろうか?それは自分で決めていい筈のものではない筈だ、けれど何故だか少年は前者以外を取る事を考えられない。

「まぁいいけど……夜宮よるみやくろ…、一応ちゃんと名乗ったよ、憶えていなくていいけども」

 玄、祖母が響きを選び、祖父が漢字を選んでくれたらしい、たった5画の漢字だが玄はこの名前を何よりも好んでいた、黒く、奥深く、そして遥かに遠い、まるで生を表している漢字だと思ったことが今も記憶に新しい、本当は祖父が覚えやすい漢字がこれだったとのことだが、この名前だって夜宮玄としての大切な記憶には違い無い。

「それと皆さんも今の光景見てよくわかっていると思うんですけど…、もし死体を映像に残す行為、彼女……と今後ろで増えている怪我人の名誉が棄損される行為を取った方には、この俗物と同じ目に遭っていただくので、もしそれでも映像を残す気ならば……忘れずに」

 だからこそ、その祖父母に恥じぬよう夜宮玄は、己が決めた信念を貫き通す。

 『神様にでもなった気か?』と言われるかもしれないが、自身が相応の覚悟を持って決めた事、祖父母に恥じぬ為にとった行動が、間違いな訳がないと夜宮は確信している。

「まぁ止めるだけなら、簡単なんだ止めるだけなら」

 息を吸い、今も刺され倒れる人間とそこから離れる為に逃げまどいドミノ倒しのように転がる人間達を見ていれば、移す行動なんてモノは限られている。

 妙に慌てた感覚、遠くから見ても恐らく会話になっていなかったであろう彼女との対話、そして最寄りの人間ではなくエラく攻撃する人間が偏っているようにも見える。

「ははーん、なるほどね」

 一歩足を踏み出すのにかかる時間はどの程度かかるのだろうか?コンマ2秒程度と言ったところだろうか?ならば10m進むのにかかる時間はどの程度かかる?

「正解はコンマ5秒もあれば、たどり着けるんだ、驚いた?」

「な…なんだ⁉お!お…お前離せよ、ぼ、僕はか…神に代わって正しい事をやって」

「人殺しが正しい事ならば、きっと国会中継は血みどろだし、そもそも神様に代わって、啓示でも受けたの、暴力で解決しろって?まっさかぁ」

「お…お前のそれだって、ぼ…暴力だろ!」

「随分端切れが悪いねお兄さん、案外人と話したことがない口かな?いいね、生きた年数以上に人生という物を歩んでる自信はあるんだよ、悩みがあるなら聞くよ」

 ほら言ってごらんというように、この男が無差別刺殺事件の犯人であることを忘れてしまう程に、夜宮玄という人間は彼を恐れていない。

 そもそもの話をするのならば、夜宮という人物は幼少期より喧嘩相手は野生動物、なのにその体に傷跡は一つ残っていない、そんな少し常識的におかしい人だ。

「なになに、お兄さんもしかしてびびちゃった?いやまぁね、うん強引すぎたかなとは思うんだ、でもねお兄さんはこうでもしないと止まりそうにないからさ……、てかさお兄さん、SNSとかやってる?そっちの方が行ける口でしょ?どうなん?」

「んー!んー!…ん…―!!」

「あぁごめんごめん、こっちの質問を答えるにも、その状況じゃ答えられないか」

 無差別、否、正確に例えるならばこのような非行少年たちが集まる場に集う、少年少女らのみを襲っている、恐らく社会にとってのお荷物、要らない存在、そういう匿名性のある場での意見を真に受けてしまったある意味では、哀れな例なのだろう。

 男の服で逆さ吊りにし、街灯に括り付け、口も縛っては見た物だが、口を縛る必要はなかったのだと、ついうっかりとしてしまっていた。

 だから男が使っていた鋭利な刃物を男に向かって投げる、突発的に視界に飛来するモノがあった場合の意識的に行う反応を男は示す、だが垂れる一滴の雫がそれを違うのだと説明する。

「お兄さん、今ので死ぬかと思ったんだ?ふーん……、まぁ安心していいよ、俺はお兄さんと違って人は殺さないようにするから……で?なんで殺しちゃったの?」

「そ…そんなことをき、君に言った所で!…ヒッ」

「質問をしているのはこっちだよ、お兄さん」

 夜宮は投げた刃物を眼球にあたる寸前まで投げ上げ、重力に従い落下しまた空中で拾う。

 その行為を第三者の視点で見れば、まるで飼い主がペットに行う躾の様な行為だろう。

 だからこそ誰もが見ても理解できる、この場で従わなければならないのはどちらなのかと、野次馬や馬鹿者共でさえ理解できるのだ、それをこの場で恐らく4番目くらいに賢い、『その行動、実行する前におかしいと思わなかったの?』系グループに属する男にはよく理解できるはずだ、故に夜宮玄はこの場で1番賢いモノとして男に問う。

「どうしてお兄さんは、この人達を殺しちゃったの?」

「そ…それは、か…彼女らが日本の治安をあ…悪化される要因そのものであり、いわばこの国におけるがん細胞なのです、だ……え、あ、きっと皆さんもそう思っている筈なんです、じ…事実私が所属するコミュニティでは、そ…その意見で話は纏まってい、いたんです」

「そうか、癌か。確かに切除するべき体の一部ではある」

「そ…そうでありましょう!だ…だから私はっ」

「でもがん細胞も元は人から生まれた物だよ?ある要因によって遺伝子あるいは細胞かな?それに外的、もしくは内的要因から生み出されるのが、がんというモノだよ」

 夜宮は男の言葉遮りながら、ただ理路整然と理科の授業をするように語りだす。

「がん、お兄さんの言う癌は悪性腫瘍の方かな?確かにこれは危険だ、生命の危機にもつながる切除あるいは、それを行う為の治療が不可欠だ。でもねお兄さん、がんと言っても様々あるんだよ、良性腫瘍と呼ばれるのが良い例だね、これは遺伝子や細胞が変異してしまった姿だが、これが絶対に生命を脅かさないと言えば嘘だけれど、まぁこれは必要に応じて治療かな?まぁこんな感じでさ、分かりやすい癌でもがんでも、一応様々な分類があるんだよ。……理科の話はここまで、お兄さん俺の聞きたいこと分かるかな?」

「な…なにを、い…言いたいで」

「そんな分からないふりをしたって駄目だって、さーこれが最後の問いだお兄さん、これに答えられたら、俺はお兄さんを解放しよう警察に引き渡すのだって拒否してもいい」

 一瞬の宣言に周囲がどよめく、それはもう来ている警察にだって聞き捨てならない宣言だろう、けれどこの場において一番賢い夜宮玄には逆らえない、そういう風に人は出来ている、だからこそ警官は動けていない、牽制をするかのように銃を抜くだけ、この状況で一番賢い夜宮という人物に発砲できるほど、彼らは覚悟を持っていない、なぜならば場は既に鎮圧され、そして犯人は既に拘束されているから。

「さてお兄さん、お兄さんが殺した少年少女らは悪性腫瘍だった。そう断言できる程のカルテがお兄さんの手元にあったのかな?最初に首を貫いた少女には聞いた?問診はしたのかな?問診はしたことにしてあげてもいいけど、なら診察は?検査は?そもそも誤診の可能性は?患者の思い込みだってことも、診る側が間違えていて患者にはセカンドオピニオンを選ぶ権利だってある、ぶっちゃけて言えば彼女達の中には夜という非日常的自由を求めて明日も元気に進学校で真面目に机に向かう子だって居たかもしれないけど」

 ぶつぶつと返答を待たずに夜宮は話続ける、最初から夜宮の手には彼が許される未来など用意していない、その証明でもあるのだが、もし証明できるのであれば聞いてみたい、その好奇心によって、そんなことを長らく聞いていたのかもしれない、だからこそ夜宮玄という人物の視界には初めから、男など眼中になかったのである。

「お兄さん?診察のけ……」

 世界が固まるような感覚、あの彼女が刺される前少し静止したのは、このような感覚だったのかもしれない、だが殺人犯と目の前の現実であれば少なくても夜宮は後者の選択肢など初めから、選択肢の中に入る筈もなかった。

「なんだよ、それは」

 目の前に居るのは、血に染まった服を着用している、恐らく被害者だったもの。

 なぜ断言できないかと言えば、その醜悪さと何より人ではない行動故だろう。

 人は人の肉を食べるのか?共食いとは?語れば長くなる故に省略する、共食いなどに意味は無いのだから、肝心なのは人の常識は人を食べるという事を耐えられるかという所。

 カニバリズムという文化があることは理解している、だがそれは独自の宗教理念や風習故だろう、人肉食ともなれば一つ話が変わってくるかもしれないが、ここでは見当違いも良い所だった。

 頭から男は食べられていると形容していいだろう、そもそも人の歯ごときでは頭蓋を砕いてまで嚙み千切る力などあるはずはない、考えが纏まらない、一番賢い筈の夜宮ですら理解が追いついていない、故に思考が纏まらない。

 ならば思考を変更しよう、彼女らの生体については二の次だ、もう頭蓋を砕かれた男も二の次にするしかない、周囲を見渡せば血だらけの少年少女らがまるでゾンビ映画の様に、人間達を貪り食おうと動いている、それも人並みの速さではなく常軌を逸した人間離れした速度で、人間の体はそれに耐えられず自壊していくしかないというのに、扱いきれないのか電柱にぶつかり動かなくなるものも居れば、真っ先に人間を捕まえるモノも居る。

 その状況を見たからこそ夜宮玄の行動指針は今をもって変更される。

「せめて人として……」

 考えるよりも体が先に動いた、一番に対処するべきは人命の保護、そして対象の制圧。

 警察も思考が纏まらないながらも、まずは鎮圧をと一発の発砲音が鳴り響く、だが対象に当たらない、人並み外れた動きをしているのだから仕方がない、この光景を見て夜宮玄はとりあえずの総称を判断する。

「ゾンビじゃなくて、グールなのかな?」

 ゾンビといえば人の体が朽ち果てて、肉体を動かす事すら難しいという印象がある、グール所謂、屍食鬼に値するモノであればこう動けても説明はつく、かもしれない。

 一発の発砲音に反応したのか、あるいは過敏になっているからこそ反射的に動いたのか、少年少女の群れという名のグールが警官を囲むように集う。

「間に合うだろ、そこなら!」

 当たり前に恐怖に支配され動けなくなった警官を抱きかかえ、横通りにグールの腹目掛け一発の蹴りを放つ、大した威力ではない。

 けれどそれでもグールは怯む。

「それならきっと……あがッ……、なんで空に浮かんで?」

 一瞬の鈍痛どころの騒ぎではない、車に轢かれたのではないかという衝撃が夜宮の体を襲う、そして視界は建物一つとない綺麗な夜空、まさに夜空の独り占めだった。

「でも……、凄く綺麗だ…」

「自分が空に佇んでいる光景を理解して尚、口が出る言葉がそれなの?」

 ふと声がした、夜宮はその声が聞こえた方角を見る、そこには先ほど見惚れたといっても過言ではない、目の前で物言わぬ骸になったはずの、彼女が空に落ちていた。

 浮いているのではない、夜宮自身が地球の引力に従い地に対しやく90度の姿勢で立っているとすれば、彼女は間違いなく地球に頭を向けて空に落ちていたのだ。


 ◆


 それは今日という日にはあり得ない光景であった、新月であるはずの今日に月が上っている、そんな筈がないが無いと理解しながらも、それでも眼前に広がるのは端から端まで手を広げても覆い切れない程の巨大な月が浮かんでいる。

 人はそれが現実として受け入れらない時、どうなるのだろう?

「え?……あ?……あァ!……」

 少なくても夜桜鮮華の精神は瓦解しかけている、受け入れらない、理解ができないからこそ鮮華は、目の前の映る光景そのすべてに拒否反応が起きてしまう。

 その世界は真っ赤な世界だ、地球に引っ張られ衝突寸前にも思える赤い月と、そして一面に張られている赤い水溜まり、その水溜まりが血であることを認識するのにかかる時間はそう必要なかった。

「ハァッ……ハァッ……」

 息をする、その当たり前の事すらまともに出来ない、まともに出来ない状況に追い込まれた時、人はこれほどまでに無力なことを知らしめる。

「おいおーい、そんなに慌てて呼吸をしてどーしったの?」

 自分以外の全てが赤い世界で、どこからか人の様な声が聞こえた。

 正直誰でもよかった、この世界に現れる姿がいくら怪物だとしても、別に人間の声で人間の言語で話す怪物だとしても、この世界でそんなに気楽に話せる存在だとしても、この行き場のない恐怖を誰かに、どういう出力であっても発散できる、そう思って鮮華はおそるおそる顔をあげる。


 それは重力に逆らいながら宙に浮いている。

 長くとても毛量の多いブロンドの髪、鮮華のストレートの髪質とは違い至る所にカールがかった髪の毛、真っ白なドレスを着用し背中から蝙蝠の羽らしきモノを広げている。

 だがそんな想像通りのヨーロピアンな女性、美しいとは思う、だがそれ以上に鮮華の瞳はある一つの部分に集約される。

(目が奪われるよう……)

 真っ赤な、真っ赤な目だ、赤目現象と呼ばれるフラッシュを用いた写真撮影に起こるような、瞳孔の中に浮かぶ赤ではなく、紛れもなく結膜と角膜の境目から文字通り目と瞳そのものが赤い、動脈血のような明るい赤が角膜を彩り、そしてその中に静脈血のようなどす黒い赤が見える瞳に、鮮華は瞳を奪われる。

 美しい人だ、何歳なのだろうか、一体何者?まずここは?脳裏に宿る疑問を全て蹴散らして、夜桜鮮華の思考にあるのは彼女に対する、惚れた腫れたという感情ではないが、それは一見惚れのようだけれどそれとはまったく違うような、視線の強制、それが鮮華の限られた思考で出す答えの中では一番合点が行く。

 鮮華は踏みしめ立ち上がる、目の前の誰かと会話がしたくて立ち上がる。

 けれども漠然とした恐怖の所為か、それとも何か別の要因があるのか鮮華はうつ伏せのまま地に伏せ見上げる形でしか、彼女を捉えられない。

 ならば声はどうか、そう思い行動したときに彼女はこちらに語り掛ける。

「随分手ひどくやられたねー、恨みを買い過ぎたのかい?君、ここに来た他の子も相応な傷を負っていた、だがそこまで酷くはなかったよ、致命傷に至る傷としては十分でも、そこまで手を加えられていなかった」

 何を言っている?鮮華は理解が出来ずに固まる事しかできない。一瞬で情緒が壊れそうな世界で、その中で出会えた人とは思えない何かが、再び自身を混乱の渦に引き戻す。

「おや?覚えていないのかな?なら思い出す所から始めよう、君はどうしてこんな所に居るのか、よーく、よーく考えて思い出してみるんだ。話はそれからでも、まぁ遅くはないさ」

 なぜ自分がここに居るか、確かによくよく考えてみればこんな地球とも思えない場所に鮮華が倒れているのか、それを思い出せば、自ずと答えはでてくるので…は……。

 鮮華は意識する、過去というモノを注視してしまう。

 鼓動に合わせて対外に放出される鮮血、抑えても抑えても留まることを知らない流血、言葉を紡ごうにも延々と逆流性食道炎のように血が逆流してき、そして視界は徐々に黒みを帯びて閉ざされていく、その状況を再び味わう事の恐怖…そして地面に満ちているこの世界に続く鏡張りの血溜まりに今も自身の血が供給されている事に気づき、鮮華は動けない体を必死に動かそうともがき苦しむ。

「いいねー、その恐怖、実に良い。君とはいい話が出来そうだよ、あ、君は喉を抉られて話せないんだったね…見るからに死にそうだが、……安心をしていい?漠然と迫りくる死という恐怖と結果は、ここでは延々と、そして無限に、いつまでも引き延ばされる、故に君がココで死ぬことは無いよ」

 その言葉のどこに安心できる要素があるのか、聞き質したい所だが鮮華に現在声というツールは存在しない、故に睨みつける、実行できるのはこの程度だった。

「おー怖い怖い、まぁ話を戻そうか、なにも私は君にココで無限に引き延ばされるその恐怖を味わいながら苦しめと言っている訳でじゃない、そういえば名乗っていなかったね先ほどこちらに招いた彼女らには挨拶をしたものだから、私の中では挨拶をしたものだと」

 そういうと彼女は姿勢を正す訳でもなく、ただこちらを覗き込むような態勢から、明らかにこちらを見下しているような足を組み、何もない空中で態度をデカく座ってみせる。

「私の名前はチェペシュ、信じられないかもしれないが吸血鬼だ。普段からこういう風に無様に殺された人間に、選択肢を与えて観察するという事を趣味に生きている者、まぁそう思ってくれればいい」

 吸血鬼は眷属を作るのが仕事ではないのか?そんな些細な疑問を脳裏に宿らせることがあっても、伝える術がないのであれば無駄なこと極まりなかった。

「血を吸って眷属は作らないのかって?……なんだ驚いたような顔をして、ここは私の世界だぞ?私の世界に居る存在の思考なんて当たり前に読めるさ。まぁいい君の疑問にも答えてあげよう、私も眷属を作るには作るがが……私は残念ながら創作上の吸血鬼の様に馬鹿舌ではなくてね、味には煩いんだ、まぁこればかりはなってみれば分かる問題だが……。脱線しすぎたな話を戻そう、君には二つの選択肢が用意されている、まぁ聡明な君ならばよく分かるだろう、私は既に行動に移した、さぁ君はどちらを選ぶかな?」

 そう言って吸血鬼チェペシュを名乗る彼女は、自身の手首を切り裂き鮮華の口元に流れる小さな血の滝を作り上げる。

 彼女の言葉を要約するとこうなる『一生ここで漠然とした恐怖と苦痛を味わい苦しむか、吸血鬼になってみるかどっちがいい?』そういう事だろう、けれどそこには一つ不可解な点が存在する、血を選り好みするというのは理解できる、ただこの行為は純粋な吸血鬼を作る方法では恐らく無いのだろう、重大な何かがきっと伏せられている。

「…っとここまで、悩まれ過ぎても面倒で困るのでね。まぁ頭を伝って、頬を伝って、唇に届くのは後数秒と行った所か、さぁ紛れもない人生最後の決断の時だ。精々悩め、人間」

 その言葉だけで、この行為には吸血鬼になるがそれ以外の何かがある、そう確信させるのには十分すぎる言葉であった。

 ふと鮮華は回らない首で周囲を眺める、世界は狂いそうになりたく程に赤く、そしてその赤さを生み出しているのは、空に浮かぶあの月で間違いないだろう、ずっと眺めていると発狂したくなるほどの、得体のしれない何か、それがあの月に感じる恐怖の正体と同時に、この世界は恐らく先ほどまで夜桜鮮華のいた世界と何ら変わらない世界というのがよくわかる、だって視界の端には最後に見た彼が何かをしている、何かと交戦している?それこそ得体の知れない奇妙な怪物と最後に見た気がする少年。

 なるほど、それが語られていない、この行為における代償だ。

 そう鮮華は納得する。この行為は眷属を増やす行為ではないのだと、これは相手主導のもと開催される博打だ、それもきっとかなり吸血鬼側に左右される博打、要は彼女の血に適合するのか、彼女が認めるのかそれはまだ分からない。

「でもそれなら……、やるべきことは一つ」

 出るはずのない声が言葉として表現できた、そして視界の先に居るのは死角から怪物共に攻撃を食らう前の彼が居る、どういう訳か彼という存在に鮮華は興味を抱いた、どうして彼が一人で皆を守ろうと戦っているのか。

 いやその理由は至極単純だ、皆が危険に晒されているならば、実力のある自分が守ろう、母性か、あるいは父性かそういう思想の持主であればそれは何らおかしい行動ではない、けれどそれを義務感の如く行動に移している少年の姿を見ると、話は変わってくる故にその答えを夜桜鮮華も知りたい、どういう心境で彼はそこに居るのかを。

「へー、君はそう思うのか。随分変わってる」

「何か文句でもある?私は、私が望む自由を知る為に夜に出向いていた、多分彼は私の追い求める自由に一番近い人……だから知りたいそう思うのは普通じゃない?」

「それもそうか……、まぁ精々私を飽きさせないでくれたまえよ、ただ運が良かったそれで終わらせられたら傍観者としても、随分とつまらないんだ」

「それじゃ、助けてくれてありがとう」

「礼を言われるような立場ではないが、まぁここは一つ祝辞を送っておこう、精々不自由に、そして社会や世界に苦しみながら生きてみるといい、夜桜鮮華」

「まぁやりたいようにやってみるよ、そっちからすれば不自由に見えるかもしれないけれど、私として最大限自由にこれからは生きてみようと思う」

 夜桜鮮華は立ち上がり、そのまま誰とも接触できない赤い世界で走り出す、今から走り出しても間に合わないかもしれない、けれど足が勝手に動き出すのだから仕方がない。

 まずは一つ人助けから、やってみよう、そう思い全力の跳躍を図る。


 空はどこまでも暗く、星空は街の灯りに照らされて見えなければ、月だって今日この日には存在しない。

 いつもより空が近く感じる、この光景に彼はどういう反応を見せるのだろうか?

 ふと鮮華は抱きかかえた彼を見つめた。

「綺麗だ」

 星空も絶え絶え、強いて言うのならば苦労人達が築きあげる命の灯の様なオフィスに残る電気、それと夜に賑わせる繁華街、見渡して得られる情報なんてその程度、とてもじゃないが鮮華にとってこれが綺麗な夜空には見えなかったが、開口一番果てしない高所に居る事を確認して尚そういう彼に鮮華は思わず笑ってしまった。

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