破局

 目が覚める。部屋は暗い。目を擦って枕元の目覚ましを見れば午前二時。デジタル時計のくっきりした7セグ表示が深夜の孤独を私に突きつける。これじゃまるで、私があの物語の女の子みたいじゃないか。作者が登場人物に同化するなんて皮肉にも程がある、さっさと眠らせてくれよ。そんな風に思いながら瞼を閉じるが、全然寝れそうにない。

 それに体もなんか変だ。皮膚はゴムみたいな感触だし、まるで精神が自分の肢体から遊離しているみたいだった。おそらくストレスによる一種の離人症みたいなものだと思われる。原因があるとすれば間違いなく、進捗の無さによる不安と、それに起因する不眠だった。


 私が詩を書き始めたのは、映像の構成が決まって二人別々での制作に移り始めた頃だった。当時の私はまだ自信満々だったので、Kと一緒に表彰台に上がってスポットライトを浴びるのが待ち遠しかったし、制作が上手くいかなくてもその過程での試行錯誤を楽しめていた。

 その証拠に、ある日の制作メモには「詩の機能とは常識的な仕方とは異なる方式による世界への理解を提示することで、私の仕事は、不条理な世界に対する主人公の向き合い方を詩によって効果的に説明することだ」などと威勢のいいことが書いてあった。効果的な説明どころか、完成すらままならなかったが。彼女が鬼のような速度で映像を作って進捗を送ってくる中、私の作業は遅々として進まなかった。


 それでも最初の方はマシで、序盤のカットに挿入する詩は遅れつつも無理やり提出できていた。問題は終盤だった。いじめを見た主人公が自身の過去を回想する様子と、いじめっ子を大怪我させて絶望している主人公の心情を書くのに苦労した。私は、主人公の歪みを表現する言葉を持ち合わせていなかった。何度も何度も書きかけては没にするうちに、己の他者理解の能力の貧弱さを痛感させられたのだった。


 そういった創作面での苦悩に加え、受験生の夏にもかかわらず全然勉強時間がとれていないことの切実な不安が私を狂わせる。夏はもう、半分終わっていた。

 さて、コンクールの締切まで残り二週間を切っている。Kのことだから八割くらいは完成しているに違いないし、きっともう、私の文章を打ち込まないといけないフェーズに入っている。


 私のスマホにはKからの催促のメッセージが溜まっている。会った当初、彼女からのLINEがあれほど待ち遠しかったのが嘘みたい。作品に対する自負心も、彼女に対する憧れや好意も、全てがすっかり反転して私を苛むようになった。創作をやめたい。不安と罪悪感から逃げて早く楽になりたい。こういう観念が私を支配している。

 突然携帯が震えた。無視しようと思ったけど、間違えて開いてしまった。


「S、最近大丈夫?困ってたら言って」

 優しさに泣きたくなってしまったが、既読をつけてしまったからにはとりあえず何か返さなくちゃ。でも、何を?

 進捗ゼロです、とは言えない。ましてや、もう無理かもなんて本音は吐けない。だって、そんなことを言えば今までの彼女の努力を無に帰してしまうことになるから。

 映像は丁度詩が収まるように構成されていたのであって、今からそこの分のカットを取り払ったら曲との整合性が取れなくなってしまう。とはいえ、このまま制作を続行しようとしたら私が押し潰されて壊れるのも時間の問題だろう。私は一体、どうすればいいの?


 途方に暮れて、真っ暗な天井の方をぼんやり眺める。書きかけてやめた詩の文句が脳を埋め尽くす。ぐちゃぐちゃの頭を整理するために深呼吸して、そして震える指で打ち込む。

「明日、会える?」

 すぐに返事が来た。




 Kとの決別は、曇りの日だった。秋を先取りするかのような、八月にしては涼しい午後。私はカフェの窓際の席に座っていた。

 学校の最寄り駅の前にある大きなモールの二階。カフェは駅のペデストリアンデッキから直に入れる場所にあるので、都会の人の往来をぼんやりと眺めてKを待つ。手持ちぶさたなので、メモ帳がわりの小さなリングノートを机の下でぐねぐねさせながら。

 ノートには私が創作のために書き留めたメモが大量に書かれていた。怠惰ゆえに締切を破った訳ではないことをKに弁明したくて持ってきたのだった。

 でもこれも二度と使うことはないだろう。だって私は、もう既に創作をやめる決心を固めていたから。物を書くことなんかじゃ決して救われそうにないし。美術館に行った日の彼女は創作のことを加害と評していたけれど、今の私に言わせればこんなもの自傷行為でしかない。(他方で、こんなことを言いながら「あ、今の言い回し、小説で使えそう」なんて思ってしまう自分もいる。筆を折ろうとしたそばから物書きの仕草が出てしまう。創作活動の後遺症。)


 うだうだしている間にKが来て、私の座席を見つけたところで注文し始めた。流石にドリンク一杯で済ませるだろうと思っていたが、デザートを選び始めたのでびっくりしてしまった。何分かしてようやく席の方に来た彼女の表情は意外に柔和だった。私に対して全然怒った様子もなくて驚いた。二週間も音信不通だったのに。

「久しぶり、進捗の方はどう?LINEでも言った通り、困ってたら教えてね」

「そのことなんだけど……」

 

 私は、「全然進んでません」と言うつもりで小さく首を振った。全部白状してしまうつもりだったのに、いざとなると緊張して声が出ない。

「大丈夫。一緒に乗り越えよう」


 Kの優しい言葉に胸が締め付けられそうになったが、私はようやく全てを理解した。彼女は私に制作を続行させるつもりだ。今日会ったのも制作のためのミーティングだと思っている可能性が高い。そうじゃなきゃ、チョココロネを二つも買ったりしない。


「K、私……もう限界なの」

「詩が全然書けなくて。毎日毎日、頭を抱えて……」

 途切れ途切れに話す私に、Kは優しく微笑んだ。

「大丈夫だよ、誰だってそういうことはあるし……。Sには才能がある。だから安心して。」


「違う、そういうことじゃない!もう創作自体をやめたいんだって!」

 思わず声を荒げてしまった。近くの客が振り向く。私は声を無理やり抑えながら続ける。

「最近、全然眠れないの。しかも三年生なのに受験勉強もちっともできてない。共通テストの模試は受けた?私、全然解けなかったんだ。2倍角の公式さえ思い出せなかったんだよ、それに……」

 涙が溢れそうになるが、対して彼女は落ちついた顔で言う。

「でも、コンクールまであと少しだよ。ここで諦めるなんて……」

「だから、そうじゃないの!」


「私は、芸術のためなら何でも犠牲にできるKとは違うの!」

 すると、それまでいつも通りだったKの目つきが完全に芸術狂の眼差しになった。

「犠牲?これは機会だよ。私たちの才能をネット中に、世界中に示せるチャンス」


 私の言うことを一切理解してくれない彼女の態度は、果たして言葉が通じているのか不思議になるくらいだった。意図が伝わらないもどかしさに耐えかねた私は突然立ち上がる。カフェ中の視線が私に注がれたが、最早そんなことは些事でしかなかった。


「もう無理なんだ!分かってよ!」

 ずっと握りしめていたメモ帳をKに向かって投げつける。ノートは宙を舞い、バサバサとページが捲れる音がした。


「S……」

 Kは流石に呆然としながら、床に落下したそれを拾い上げる。


「ごめん、でも、もう……」

 涙をこらえきれず私は逃げ出した。カフェを飛び出し、人ごみの中へと消えていく。後ろからKが私の名前を呼ぶのが聞こえたが、振り返ることはできなかった。


 雨が降り出す。どうやら先刻の涼しさは夕立の伏線だったらしい。駅の入り口に辿り着く頃にはすっかり土砂降りになっていた。

 私たちはもう、元の二人には戻れない。そう思って、帰りの電車でひたすら泣いた。決断の重みと、やっと自由になれた安堵が入り混じって。


 その夜、ずぶ濡れのまま帰宅した私は暖かいシャワーを浴びた。あの日買ったシャンプーが切れていることに気づいたが、空のボトルを捨てることさえまともにできなかった。そんなことをしたらKとの思い出ごと全てゴミになってしまうような気がしたから。身体を引きずるようにして自室に戻ると、ベッドに倒れ込んで深い眠りに落ちる。

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