第一部 第4話 ヒッグス
「コラ、ディミトリーさん相手にアンタはダメよ。でも、ありがとう」
ローズは照れることもなくウテナに笑顔を返したが、隣に座るナナクルはそうもいかない。男同士ということも一役買っているのだろう、顔を窓の方に向け首の後ろ側をなでるように掻いている。
「まぁ、アレだ・・・ジレンマはあっても、オマエたちが造り上げたモノは俺たちの誇りだぜ?」
「それは同感だな。
ここに居る5人のうち、実際にADaMaS製Mhwのパイロットなのはヴォルフゲン・フロイトだけである。彼はその専用機である
「おっ!やっとパイロットの感想が聞けた」
ここでようやく、本当の意味で一息つくことができた。場の雰囲気が柔らかなものに再び変わったことを全員が感じ取ることができた。
「ハーブティー、冷めましたよね?新しいの、淹れますわ」
「いいですね、いただきます」
ローズが戻ってくるまでの間、4人は戦争でもMhwでもなく、サッカーの会話に興じていた。ローズが今度は5つのカップにハーブティーを注ぎ終え、その香りに全員が一息ついたころ、ようやくディミトリーが来訪の本当の目的を話し出した。
「ウテナさん、〝反物質〟というモノをご存知か?」
「反物質・・・ええ、もちろん知っています。接触することで物質を消滅、つまり対消滅を引き起こす物質ですね。ただし、コレは自然界にほとんど存在していない。」
反物質は西暦と呼ばれた時代から研究が進められていた物質だ。物質と接触することで対消滅を引き起こし、質量がエネルギーとして放出される。そのエネルギー転換効率は自身の質量の200%であることから、宇宙での生活が現実のものとなったころ、その研究は加速度的に行われていた。だが残念なことに、反物質が自然界で発生することは基本的に無く、したがって人工的に精製する他なく、この生成時に使用される粒子加速器が極めて巨大なものであること、さらに反物質生成に必要なエネルギーが得られるエネルギーよりも大きいことから実用化にはほど遠いと結論付けられている。加えて言うと、仮に生成が納得のいく成功を見たとしても、反物質が物質に触れたときに引き起こされる対消滅は爆発的なものとなり、取り扱いが極めてデリケートなものとなってしまう。
そもそもこの反物質、物質と触れるだけで対消滅を起こすということは、空気はもちろんのこと、真空と呼ばれる空間であったとしても存在を維持することはできない。真空とは、物質が何も無い空間ではないからだ。
ウテナたちのような種類の人間であれば、そのことは常識のように知っている(ウテナの場合は熟知と言った方が正しい)。そしてそこから導き出される結論が、〝実用性の皆無〟であることも周知の事実だ。
「では、ヒッグスはご存じですか?」
「真空崩壊理論の基となった理論提唱者ですね・・・どちらも古くから研究は、されている」
ピーター・ウェア・ヒッグス。自発的対称性の破れに基づいた理論提唱者であり、この理論をヒッグス機構と呼ぶ。この機構にはヒッグス場と呼ばれるスカラー場、それに対するスカラー粒子、さらにはスピン0、電荷0のボース粒子と、おおよそ一般人には理解しがたい言葉が並ぶ。標準理論、宇宙論と呼ばれる理論の根幹に位置するため、ヒッグス機構は重要なのだが、この場において真に重要なのはウテナの発した「真空崩壊」にあった。
「真空崩壊・・・この事象として考えられている触れたものが全て一瞬で消滅する・・・要点はココだね?」
「貴方はその理論を理解している人だと、私は考えていますが?」
「・・・安定しているはずの物質が何らかの理由によって再びエネルギーの放出を始めることで、真空崩壊が起こる」
「起こり得ると思いますか?」
「現在考えられているヒッグス場の概念が覆る必要があるよ?それは、現在の科学で確認されている安定状態を否定・・・偽の真空だということになる」
「ちょ、ちょっと待って・・・ナニ言ってるのか分からないわよ?何語?」
ふと見ると、ローズの顔に苦笑いが浮かんでいる。
「まぁ、普通では起こり得ないことだからね・・・できる限り、分かりやすくしてみようか」
そういうとウテナは、周囲から板を2枚と、鉛筆を1本取り集めた。そのうち板2枚をナナクルに手渡し、板をⅤ字状にした状態で、空中維持するように求めた。
「これはエネルギーの話でね。分かりやすく、運動エネルギーに例えようか。鉛筆を谷の傾斜に置いて手を放したらどうなる?」
手に持っていた鉛筆をそっと、壊れるモノであるかのように優しく摘まむと、ナナクルの持っている板の傾斜に沿わせた状態を維持する。
「どうって・・・転がるわよね?」
見た目に分からない程度で指の力を緩めると、ウテナの束縛を解かれた鉛筆は作られた谷底に向かって転がり、底で数度反復を繰り返した後に動きを停止させた。板2枚を空中で静止させているナナクルの腕が小刻みに震える振動に合わせ、鉛筆がわずかに動く。
「ナナクル、もう少しガンバってね?転がった時の運動エネルギーが、谷に向かいながら放出されたってことなんだけど、結果、エネルギーが0になって止まってるね?」
「うんうん」
「これが安定状態ってことになるんだけど・・・ナナクル、お待たせ」
そう言うと、ウテナはナナクルの手の上から板を持ち左右に開いた。それまで谷であった場所には何も無く、安定を失った鉛筆は、ナナクルの足元へむけて急降下した。
「僕たちの認識で安定しているという状態が、実はまだ不安定な状態で本当の安定はさらに下だったとしたなら、今見たように、鉛筆にはまだ運動エネルギーが残っていた。ということになるね。今は僕がそうしたけれど・・・」
ここでナナクルの目が輝きを持った。
「さっきウテナが言った安定状態の否定ってコレのことか!」
「そうだね。僕たちが安定していると認識しているものが、実際にはそうでなかったとしたなら、世の中にある全ての物質は、本当の安定状態との差次第で、膨大なエネルギーを〝まだ〟持っていることになる」
「それは解ったわ。けど、それと反物質の関係性がまだよく解らないんだけど?」
さらに首を傾げるローズを見てウテナは先を続けた。
「さっきのヒッグス場理論がここで言う仮初の安定を示してる。ということは、安定が覆ると今ある常識の全てが覆るってことになる。その連鎖から逃れることはできないし、ひとたび発生してしまえば、何かを考えるよりも早く、全てが消滅する。」
「解った気がするな・・・反物質ってのは、対象の安定を崩す物質ってことか?」
「反物質とヒッグスを紐づけるとしたなら、そうなると思ってるよ」
ナナクルのゆっくりとした言葉に対し、ウテナは静かにうなずいた。
「でも、そんな物質が理論上であっても生成可能なのか?」
すでにその場はADaMaSの3人で構成されているかの様子だった。ディミトリーはただ黙って3人の会話の様子を注視している。フロイトはと言えば、ローズやナナクルと違い、その方面の知識を持ち合わせていなかったことが原因だろう。ただ黙るしかなかった。
「あくまで理論上は、だね。それに大前提として今の僕たちが認識しているこの安定状態がニセモノである必要があるんだ。そんなコトを考え付くなんて・・・いやはや、ピーター・ヒッグスは偉大な人物だよ」
「常識の根底を覆す・・・か。言葉で分かっても理解には辿り着かないわね。IFの話なんですもの、机上の空論よね・・・」
「そうだね・・・だいたい、反物質の対消滅と真空崩壊の原理が同じかどうかも分からないからね」
ローズもナナクルも技術者ではなかったが、ADaMaSにおいて〝技術〟に関わらない者はいないといっていい。何より頭のイイ2人だ。反物質が理論上、〝生成〟可能であっても、それが求めるものでない可能性が高いコトを理解していた。
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