第6話 結末
「ゲホッ、ゲホ……」
意思に反し喉に流れ込んで来た水で、大きく咽せた。どうやら私は気絶していたらしい。頭の後ろに人肌の温かさを感じる。
ゆっくり目を開けると、ペットボトルを手に持ち、ボタボタと涙を流す由佳ちゃんの顔が真上にあった。私は彼女に膝枕されているようだ。
倒れた体を起こそうとするが腰に力が入らない。モタモタと難儀をしていると、背を支えてくれる力強い腕が添えられた。なんとか上体を起こして振り向くと、彰良が眼鏡の奥の大きな目を糸のように細めて微笑んだ。
「よかった。愛美、よかったよー」
ぐずぐずと泣き続ける由佳ちゃんに小さく「ありがと」とつぶやく。
少し落ち着いたところで、ゆっくりと辺りを見回した。ここは船亀ビーチ横の駐車場か。駐車場看板の脇には太田さんが立っていて、砂浜の向こうに青く輝く湖を眺めていた。
私が目覚めたことに気づいたのだろう、彼女がこちらへやってくる。
「あの?」
私がもの問いたげに視線を向けると、太田さんはコクリと頷いた。
「彰良さんが止血してくれました。さすがの手際でしたよ。愛美さんが気を失っていたのは十分くらいかと。命に別状はないそうっすよ」
言われなくても、左手首がズキズキと痛むことと、その深い傷の上から強い力できっちりと巻かれた布の感触はよくわかる。私は命拾いをしてしまった。
「どうして?」
私の背を優しく支える彰良に問いかけた。
「もうこれ以上、大切な人を失いたくないからな」
そう言って彼は寂しそうに首を横に振る。
「それに、先生が」
「え?」
「太田先生が気づいたんだ。お前がいないことに。そしておそらくここだろうと」
太田さんは少し困ったような顔をして、ボサボサになったショートヘアを手漉きで掻き上げている。
*
刑事たちの執拗な事情聴取ののち、私たちは宿のご好意で軽い朝食をとった。そのあと、ようやく我々への監視が、亀浦湖エリアから出ないことを条件にいったん解除された。《ペンションとるて》周辺の警戒も緩んだことを確認し、私はこっそり宿を抜け出した。
*
「自分のせいです。もっと早く、思いついた疑問を言葉にするべきでした」
申し訳なさそうな声で、太田さんはそう言った。
「それって一年前、京平を殺したのが智也だったと気づいたことですか」
掠れた声で、私は訊ねる。
「それも、あります」
ああ、やはりこの人は気づいている。全てのことを。
「愛美さん。あなたですよね。昨夜、智也さんを死なせたのは?」
私の体がビクッと強張る。そう、智也を、友人だった高山智也を私は殺した。
すでに太田さんから話を聞いていたのか。彰良と由佳ちゃんは、今の言葉を比較的冷静に受け止めているようだった。
「事件の現場はここっすね?」
彼女は細く長い脚を使って、ザッと地面にカーブを描いた。夏の陽光でカラカラに乾燥した土が削られ、土埃が舞う。
私は無言で頷く。昨夜、私は智也を湖までの散歩に誘い出した。
「缶チューハイに薬か何かを入れたと、自分は考えています」
「短時間型の睡眠導入剤ハルシオンです。一年前の事件で眠れなくて、薬学部の先生から処方してもらいました」
夕食後、宿から少し離れたところで落ち合った智也に、私は缶チューハイを渡した。
「二人でそれを飲みながら、ここまで歩いた。愛美さんはいつごろ、昨夏の真相に気づいたんです?」
「秋の授業が始まってからでした。ある日ワクチンの輸送と接種手技の実習があって」
後ろで彰良が「ああ」と溜め息を漏らした。
「ドライアイスか?」
「ええ、専用のボックスに、ドライアイスを入れてワクチンを運んだの」
「気づいたんですね愛美さんは。北沢さんが見た煙の正体に」
「でも、それだけじゃ、単なるイタズラ。許せないのはわかるけど」
由佳ちゃんが涙声で、無念そうに言う。
友人同士の些細なイタズラ。そこから起こった不幸な事故。普通ならそう考える。
智也も、きっと反省し傷ついている。私もそう考えようとした。納得しようと頑張った。
しかし私は思い出してしまった。
「あいつは洗っていたの。あの夜、クーラーボックスの内側を」
「智也が? それは、いつ?」
「助けが来る前。皆で水遊び場の小亀ビーチで待っているときに」
皆で京平の遺体を囲み、泣きながら救急隊を待つ間、智也は水辺でクーラーボックスの内部を洗っていた。
「私、ショックと悲しさで呆然としながらも、頭の片隅で、あいつ何やってんだろって考えてた。最初は、借りたクーラーボックスが単に汚れたからかと思った」
「ボックスの内側に京平さんの血飛沫が入り込んでいたんですね」
太田さんの指摘は、私の考えたことと同じだ。
「そうとしか考えられません。智也は湖上でボックスの蓋を開き、血が飛び散るようなことをした。そう確信したからこそ、私はこの夏の慰霊の旅を皆に持ちかけた……」
「最初から、旅のスタート時点から、愛美は智也を殺すつもりだったのか?」
苦しそうな彰良の問いかけに、
「ううん」と、私は首を横に振る。
「チャンスを、あいつにはチャンスを与えるつもりだった。それに、もしかしたら私の勘違いかもしれない」
だから私は薬を少なめに使った。しかしそれが失敗の……いや後悔してももう遅い。
「智也が缶チューハイを飲み干したのを確認し、私はドライアイスのイタズラに気づいたことを告げた。そして、あの夜にクーラーボックスを洗っていた理由を問いただした」
「それで、あいつはなんて言ったんだ? 白状したのか?」
「いいえ何も。おかしいくらいに動揺してた。そこで正直に話してくれれば、私は何もしなかった。作り笑いでオロオロするあいつに、あのクーラーボックスはまだペンションに残っているはずと伝えた。宿から借りたら今すぐに、私なら検査ができるって」
「ルミノール発光……か」
医者の卵である彰良も、そして智也も、もちろんよく知っている化学反応だ。
「ルミノール……、犯罪捜査にも使われる血痕検出法でしたか。確か血中のヘムを触媒に青白く発光する現象」
「よくご存知ですね太田さん。ルミノール発光は代表的な化学発光の一つで、薬学部では実習を行います。試薬の感度は非常に高く、洗剤を使わない水洗いでは誤魔化せない」
「検査するための道具を、愛美さんはこの旅に持ってきた?」
「試薬のキットはネット通販で簡単に買えます。今も部屋のバッグに入ったままですよ」
《ペンションとるて》のクローゼットに、ルミノールと過酸化ナトリウムの粉末、それに精製水のボトルを入れた鞄が置いてある。
「それを使って愛美さんが検査した結果、例えクーラーボックスの外側に血痕が見つかっても、救助中に付着したと言い訳ができますが……」
「ボックスの内側に血痕が見つかればどうなるか? 警察に持っていけばDNA鑑定も可能なはず。そんな話をしていたら、智也は私の体に掴み掛かってきました」
由佳ちゃんと彰良に動揺が走る。
「逆上したのですか。智也さんは……」
淡々と話し続ける太田さんだったが、その冷めた瞳はうっすらと朱に染まっていた。
「彼は私の首に両手をかけ、そのまま押し倒そうとしました。言い逃れができないと気づいたんでしょう。仕方がなかったんだと叫んでいました。でも……」
「薬が効いていた?」
「使った薬の用量は少なめです。自首すると言って欲しかったので。でも、あのとき彼はすでにふらついていて、私を制圧できるような力は出せなかった」
「自首を拒否して、そのまま眠ってしまえば、手首を切って浜辺から水に浸けて自殺を偽装する。そういう計画だったんですね」
「全くその通りです。すごいですね。私の頭の中を覗いたみたい」
私は少し笑った。
「友人を殺した湖の水面を見つめながら、智也は手首を切って自殺する。これなら復讐も果たせますし、遺書がなくても昨年の事件を告発することができる。警察がどう判断するかは関係ありません。私にはそれで十分でした。なのに、それなのに」
私はそこで一息つくと、堪えていた感情をむき出しにして、大声で叫んでしまう。
「なんで、あんなことになったのか、本当にわからないんです。智也は、あいつは、《亀の井のお堂》の前で、なぜあんな悲惨な姿で死んでいたんです?」
夏の真っ白な風景のなか、私の叫びがこだました。
*
「それはね、あなたの失敗と、あなたを大切に思う人の優しさのせいですよ」
太田さんの声の温かい響きに反応したのか……気のせいだろうか、背中に感じる彰良の手の平が熱くなった。
「あなたは失敗をしましたね?」
学校の先生がダメな生徒を諭すように、優しく太田さんは私に問うた。
「はい」と、私も素直に応える。
「自首を期待して、愛美さんは睡眠薬を少なめに使った。それが中途半端に働いた?」
「そうだと思います。彼を完全に無力にし、昏睡させるには弱かったのですが……」
「あなたに反撃され突き飛ばされたとき、十分に踏ん張れないほどには薬は効いていた」
「襲ってきた智也を私は押し返しました。しかしあんなにあっけなく倒れるなんて」
「転倒した彼は、硬い場所に頭をぶつけた」
「そこの駐車場看板……その下のコンクリ土台にです。ゴッて大きな音がしました。私は慌てて駆け寄った。でも、もう反応はなく」
「救命処置をした?」
「しました。笑っちゃいますよね。自殺を偽装して殺すつもりなのに、救命するなんて」
由佳ちゃんの泣き声がまた大きくなってきた。
「頭を打って死んだんじゃ、まずいですよね?」
「まずいですよ、自殺にならない。本当に慌てました。でも結局、無駄だと気づいた」
「それで大急ぎで、左の手首を傷つけた?」
「医学部の友人から手に入れたメスで切りました。でも困ったんです。石なんか落ちてない船亀ビーチの水辺に、頭を打った遺体を連れて行っては辻褄が合わないことになる」
「おまけに駐車場看板の下には血痕が残っています。だから自殺の現場を駐車場に変更した。しかしリストカットだけでは、血小板の凝固作用や身体の止血機構の働きで自殺が難しいことを、愛美さんは知ってましたね」
「もちろん薬学部生ですから」
「そこで使ったのはトイレのバケツですか?」
「ハハハ、もう私からの説明なんていらないですね。そうです。去年の夏、花火の時に京平が持ち出したのを思い出しました」
「バケツに水を張り、深く傷つけた手首を中に入れ、看板の下に遺体を横たえた……」
「彼は貧血で倒れてコンクリ土台で頭を打った。私はそう偽装したんです。それなのに」
「夜の十時に皆で来てみたら、何もなかった……と。焦ったでしょうね」
「驚きました。何もない。誰も騒がない。何が起こったのか、夢でも見てたのかって。今もわかりません。太田さん、教えてください。何が起こったんです?」
そこで太田さんは寂しそうに微笑んで、
「ここから先は、彰良さんにも話をしてもらいましょう」と言った。
*
「俺が昨夜、ここへ来たのは九時十分ごろでした。驚きましたよ、智也が倒れてるんだから。現場の状況で最初は自殺だと思った……。すぐに救命しようとして気づきました、これは違うなって」
「バケツの水が血に染まっていなかった?」
太田さんが注釈を入れる。染まってない? 私はちゃんと水に手首の傷を浸けたはず。
「そうです。もちろん少しは血が出て、水は赤く染まっていました。しかし明らかに薄い。そして側頭部の傷からの出血は多量で、粘度は高く一部は凝固していた。これは間違いなく頭の傷が先にでき、おそらく心臓が止まってから、手首を切られたと直感しました」
「傷を受けた時の心拍動の有無、それから止血機構に関わる生活反応ですね」
「ほんとなんでも知ってますね、先生は」
彰良が場違いな笑い声を出す。生活反応……、解剖学の授業で聞いた言葉。そうか、それが私の失敗か。
「ご指摘のとおり、問題は心拍と傷口の局所的生活反応です。ちゃんと検視するなら大学病院で行う必要がある。しかし昨夜の事例ではほぼ間違いない。頭部のダメージが原因で心臓が止まってから、手首が切られている。この判断が正しいなら」
「これは自殺ではない」
「頭に瀕死の重症を受けてから、絶命寸前に手首を切ってバケツの水に傷口を浸け自殺する。そんなことは不可能です。それなら殺人ということになる」
「問題は誰がやったことなのか……ですね」
「俺の頭に浮かんだのは、一人だけです」
彰良は背後から私の体を抱きしめた。私の頬を一筋の涙が流れ落ちる。
「なんとかこの事実を隠蔽できないかと考えました。そこでまず思いついたのは……」
「犯行場所の偽装?」
背中越しに、彰良が強く頷いたことがわかる。
「遺体が置かれた現場を変えることで、実行可能な人物を誤魔化したかったんです」
「つまり愛美さんのために、アリバイ工作をしたってことですね?」
私の名前が出た瞬間、彰良の体が強張った。しかし太田さんの口調は静かなまま変わらない。初めて会った時の印象通り、やっぱりこの人は恐ろしい。
「智也が死んだのが夕食直後なら死亡推定時刻はかなり正確に出る。《亀の井のお堂》のあたりに『頭を殴られた遺体』があれば、愛美にはアリバイがあると判断しました」
「短時間に大した決断力です。出血のある智也さんの頭の傷は、彼の服で覆って?」
「良く見てますね。確かにあいつの着ていたシャツを使いました」
駐車場で倒れた時、智也は黒いポロシャツ姿だった。その服を血を漏らさないように、彰良が使った。だから遺体は上半身が裸だったのか。
「湖へ投げ落としたのは、亀石周辺の出血量を誤魔化すためですか?」
「そうです。あの時点で傷からの出血は止まっていました。智也の頭を強く亀石に打ち付けましたが、あれ以上は血だらけにできなかった」
「しかし遺体を投げ落とそうとして気づきましたね。自分の存在が問題になることに」
「そう、単純なことですよ。俺と愛美が共犯ならアリバイは成立しない」
実際に同じことが起こった。私が殺し彰良が遺体を処分する。二人は友人同士。警察官なら当然思いつくシナリオだ。
「そこで『自殺に見える遺体』を『殺された遺体』に仕立て直す必要が生じた」
「敵わないなあ」と、彰良は呆れたように笑った。
「すごいですね先生、そうなんですよ。俺は『智也は我々とは無関係の人間に殺された』ことにしたかった」
「しかし困ったことに、遺体は自殺に見せかける工作がされています。智也さんがこの地で自殺するなら、昨年起きた事故が動機の有力候補になりますね?」
「そんな筋書きで偽装自殺を思いつくのは誰か。すぐに警察は俺や愛美を疑うでしょう」
「だから智也さんの遺体を『殺人鬼に殴り殺された姿』に作り変えようとした。しかしそれには愛美さんがつけた『手首の傷』が邪魔になる」
私の頬に、彰良はそっと手を触れた。
「智也の左手首には深い傷があり、バケツの水に浸かっていました。夏のこの時期、手指や傷口はかなりふやけていた。殺人犯がそんなことをする理由は自殺への偽装しかない」
「その点を隠すため、あなたは左手首を切り落とし、発見されないよう捨てた。『手首の傷』を見えなくするには、手首を完全に切断すれば良い。現場には、愛美さんが遺体の右手に握らせたメスがあったはずです。医学生のあなたなら簡単だった?」
「そうでもないですよ。関節もあるし、逆にうまく切断しすぎても俺だってバレます」
精一杯に強がっているのだろうか。彰良の話す声はだんだん掠れてきていた。
「でも、なんで、左手だけでなく、両手を切ったの? なんで、そんな面倒なこと」
彼の献身が悲しかった。私にそんな資格はない。彰良の腕を強く握りしめ、私はそんなことを聞く。しかしその問いに彼は黙ったままだ。代わりに太田さんが応えてくれる。
「左手を切断したあと、彰良さんは亀石を前にして悟ったのでしょう。頭と左手を損壊する殺し方で《亀の井のお堂》付近に遺体があれば、この殺人は『京平さんへの復讐』に見えるって」
ああ……、そうか。そうだったのか。
京平は昨夏、左腕を骨折し頭を殴られ、湖の上で死亡した。
「愕然としましたよ。頭と左手の傷、そして《亀の井のお堂》。あまりにも去年の事故と符合しすぎる。ゆきずりの殺人鬼がやったようには見えない。だいたいよく考えたら、なぜ俺はお堂まで智也を運んできたのか? いちばん来ちゃいけない場所じゃないですか」
「愛美さんの『犯行現場』から遺体を遠ざけようとして、彰良さんは無意識のうちに『犯行動機』に遺体を近づけてしまったんですね」
「森の中に入るなり、湖の対岸に行くなりするべきだった。それなのに気づいたらお堂にいた。自分でも意味不明です。亀石に誘われたとしか思えない。その時点でもう別の策を講じる時間はなかった。左手首が特別だと見えないように、右手首も切り落とし……」
「此れ見よがしに右手だけをお堂に残した。では、水にふやけた左手はどこに?」
「メスと一緒にシャツで包んで湖へ投げ捨てました。浜辺で拾った石を重しにしてね」
そこで彰良は「はあー」と、一つ大きく息を吐き出し、私の背に顔を強く押し付けた。
「今思えば亀石を遊びに使った肝試し、あれが間違いの始まりでした。なんで俺たちはこんなことに……? 先生、昔話にあるような『呪い』って本当にあるんでしょうかね?」
「自分は、超自然的な現象や超能力は専門外っすよ」
彰良の問いかけに、太田さんは少し苦笑した。
「太田先生……俺たちはね、あの夜、亀石をおもちゃにした。だから亀石の怒りを買って呪われてしまった。俺には、そんな風に思えて仕方がないんです」
「魔法のような呪いの力が本当にあるかはわかりません。ですがね、石は人を呪わない」
太田さんはショートヘアを掻き上げ、首を横に振る。
「古い書物に呪いの話はよく出てきます。いろんなパターンがあるんですよ。でもね、思うんですよ自分は。人を呪えるのは人だけなんだと。誰かが言葉や行動の形で発した強い『思い』、それが別の誰かの心に取り憑き、動きを縛り、その人の将来を左右する。そんな人から人への『思いの伝わり』が暮らしの中で確かにある。昔の人は、この思念の伝播を呪いと呼んだのではないか? 相手を『思う』ということは、ただそれだけで人を幸にも不幸にもできる……そんなことを、いつも自分は考えています」
呪い。私は迷信など信じない。でも私たちの心は、あの夏この湖で、自分たちが始めてしまった忌まわしい出来事の連なりに、やはり取り憑かれてしまっていたのだろうか……
「俺の思いで、愛美を幸せにできた。その可能性があったということですか?」
「そうですね。そしてそれは、今からでも変わらず、遅くはない。自分はそう『思い』ますよ。それにしても彰良さん、最後は駆け足で駐車場へ戻りましたね。すごい速さです」
「皆が集まる時間ギリギリでしたよ」と言って、彰良はちょっと照れた声で笑う。
「しかし、先生はどこで俺が関わっていると気づいたんです?」
「違和感は色々……。ただ一番引っかかったのは『凄惨な事件現場のお堂で血の汚れが少ない床』と『晴天が続く夏の駐車場にポツンとあった水たまり』」
「やはりその二つですか。俺も気づいてましたよ。それが見え透いた失敗だということに。でも仕方がなかった。お堂のなかは、亀石の台座を血で満たすのが精一杯でした」
「両腕や頭から流れ出た血が少なすぎる。智也さんはここで死んだのではないと直感しました。次に駐車場看板のあたりにだけ残った水たまり。誰かがコンクリ製土台の周辺に水を撒いた……なぜか? もしや智也さんはここで頭を打ったのではと考えました」
「先生の想像通り、バケツに汲んだ水で血を洗い流した跡です。あの水たまりは誤魔化しようがなかった。大慌てでバケツを片付け、自分の身繕いをしてトイレから出てきたのと、皆がビーチに到着したのは、ほぼ同時でしたからね」
昨夜、私は『友人の自殺現場を発見する』という演技をするため、大変な覚悟を胸にビーチにやってきた。ちょうどその時、彰良は駐車場脇のトイレから、ハンカチで手を拭きながら出てきた。
彰良は私を庇うため、大きな仕事を終えたところだったんだ。
「二つの違和感。何かがあった現場が二つ。残った遺体は一つ。それでは関わった人は何人か? 登場人物は? そこからスタートし、一つの物語を紡いでみると遺体の両手を切った理由が見えてきました」
「参りましたよ、太田先生。完敗です」
「彰良さんも短時間で良くやりました。でも……、本当にこんなことで、偶然出会った殺人鬼に殺された事件だと、本気で偽装できると思ったんですか?」
そう問いかける太田さんの声は、今まででいちばん暗く、悲しい響きだった。
「いや……ダメでしょう」
彰良が私の背中から顔を離した。
「先生と同じように、お堂の違和感から犯行現場は別にあると警察も必ず気づく。そこから真実はすぐそこです。あの時の俺はどうかしてた。やっぱり何かに取り憑かれていたとしか思えない。何も良い考えが思いつかなかったんだ。本当に、本当に、バカだった」
バカだ。彰良は、本当にバカだ。大バカだ。なぜ、なぜ、なぜ……
「なぜ?」
「ん?」
「なぜ私のために、そんなこと」
彰良は医大でも優秀な成績だと聞く。友人も多く充実した日々を過ごしていたはずだ。しかしこれで、彼の未来は閉ざされた。私の身勝手な復讐なんかのために……
「さっきも言っただろ。俺はもうこれ以上、大切な人を失いたくないんだ」
寂しそうにそう言って、彰良は私の背を強く抱きしめた。
私の瞳からは、涙が溢れ、乾いた地面に零れ落ちていく……
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