第4話 回想
「おい愛美、どうだい、食堂で飲まないか?」
泊まっているペンションの玄関先で、彰良に呼び止められた。いったい、いつから私の外出に気づいていたのだろう。
ゴクリ、と唾を飲み込む。焦るな。自然に……自然に。
「飲み会? いいね、じゃあ部屋で顔を洗ったら行くよ」
宿に戻ったら、すぐに誰かと会うつもりだった。
うん大丈夫……計画通り。
ただ自分が、自然な笑顔ができているか……? それが心配だ。
*
部屋で身繕いを整え食堂を覗く。奥のテーブル席で由佳ちゃんと彰良が飲んでるのが見えたけど、思いがけず、グループ外の参加者がいるようだ。
「こんにちは。佐伯愛美です。あ、えーと彰良と同じ信濃医大ですが、私は薬学部です」
初対面の人が苦手な私は、ぎこちない笑顔で挨拶する。
「どうも、太田多和と申します」
可愛らしいショートヘアの頭を、彼女はペコリと下げてくれた。綺麗な顔にスタイルの良い体型、愛嬌のある笑顔を持ちながら、その眼差しはちょっと怖い人だった。
*
私が来る前から三人で飲んでいたらしい。皆が陽気に話しているが、次第に話題は、我々が予定している『今夜のフィールドワーク』のことになっていく。
「そうすると、皆さんは、このあとまた《亀の井のお堂》に行くって訳ですか?」
「ええ、そうなんです」
彰良がイタズラの計画が見つかった子どものように、ニヤリと笑う。
「ほうほう、まあ夏休みですもんね。やっぱり肝試しかなんかで?」
悪気のない、太田さんの軽口だったが、私の顔はきつく強張ったのだと思う。
「あれ、何か余計なこと話しましたか?」
オロオロする彼女には申し訳ないが、この地で肝試しの話題は、私の逆鱗に触れることになる。彰良も気まずそうな顔をしているが、その隣に座る由佳ちゃんは違った。
「そうだ、みんな。今夜のフィールドワークに多和先生も来てもらいましょうよ」
明るい声でそう宣言した。
「おいおい、それは失礼だろう。先生だって予定があるだろうし」
彰良が困った顔で由佳ちゃんを嗜めるが、
「せっかくだから聞くだけ聞いてみましょうよ。何か違う見え方があるかもしれないし」
昔から天真爛漫な彼女は、しばしば空気が読めないことを言う。
「あの、すんません。そのフィールドワークてのはいったい?」
各地の史跡を周って研究に励む太田さんにとって『フィールドワーク』という単語は、とても魅惑的なものらしい。
「えーっと」と言葉に詰まりながら、彰良が私に視線を投げてきた。一年前の事件を最も重く受け止めているのが私だと、友人たちはよく知っている。
さすがに迂闊だったと気付いたのか、由佳ちゃんが口に手を当て、気まずそうな表情で視線を逸らした。しかし一度出てしまった話題は、もう引っ込められない。
ここで感情を爆発させても、私の計画にプラスはない。
怒りをゴクリと腹の中へ押し込もう。そうだ笑顔だ、笑顔が大事……
「そうね。由佳ちゃんの言うとおり、違う視点からの意見は確かに大切ね。太田さん、去年ここ亀浦湖で私たちに起こった事件について、ご意見を聞いても良いでしょうか?」
私の問いかけにコクリと頷いた彼女の、その冷たく透き通った瞳が恐ろしい。
*
私はゆっくりと、慎重に話しだす。
「一年前、この地で友人が亡くなりました。彼の名は北沢京平。高校の同級生でした」
「ご友人が……」
「はい。私にとって大切な人でした。あの日の夜、私たちは《ペンションとるて》の食堂で夕食をとると、遊歩道入り口の近くにあるビーチへ行きました」
*
あの夜、私たち五人が向かったのは船亀ビーチ。宿から歩いて十分のよく整備された美しい湖水浴場で、昼間もそこで水遊びを楽しんだ。
「よーし、まずは花火だ」
そう宣言したのは彰良だった。皆で浜辺に座り、買ってきた花火を広げたが、
「あれ、バケツを忘れちゃった」
由佳ちゃんがバケツを持ってきてないことに気づいた。
「大丈夫だろ、そんなの。目の前には水がたっぷりあるんだ。火事の心配なし」
少し酒に酔った智也が、ばーっと手を振って湖を指し示す。湖上には丸い大きな月がかかり、夜の風に水面がゆらゆらと揺れていたのを覚えている。
「ダメだよ、湖の水じゃ。花火を捨てるのに消火用のバケツがいるだろう」
心配性で根が真面目人間の京平が力説する。確かに彼の言うとおりだ。火が消えたとはいえ、熱々の花火をビニール袋にそのまま捨てるわけにはいくまい。
「あそこにあるよ、きっと!」
京平が指さしたのは、ビーチに隣接した旧駐車場の薄暗いトイレ。
新しく舗装された『第一駐車場』が出来てから、旧駐車場は荒れ気味と聞いていた。進入路には駐車場入り口を示す古い看板がボロボロのコンクリ土台の上に立っている。土が剥き出しでデコボコの駐車スペースの一角に、その幽霊が出そうなトイレがあった。
「俺、行ってくるよ」
スキップのような足取りで彼は駆けて行き、すぐに笑顔で「あったあった」と喜びながらブリキのバケツを持ち戻ってきた。この後に起こる悲劇も知らず、皆が楽しそうだった。
一時間ほど花火を楽しんだのち、夜のハイキングに行こうと言い出したのは智也だ。
「ミルクたっぷりのアイスクリームがあるんだぜ」
宿から借りてきた小型のクーラーボックスを持ち上げてみせる。《ペンションとるて》のロビーには売店があり、地元牧場特製のアイスクリームがお土産用に販売されていた。
夜の遊歩道に照明はなかったが、月が明るいので問題はない。夏の夜のハイキング。友人たちとキャーキャー言いながら歩くのは楽しかった。十五分ほどで、水遊びができる小亀ビーチに出る。拳大の石が多い小さな浜だ。そこで再び水辺に座り、よく冷えてカチカチの芳醇なアイスクリームを頬張る。
「こうゆう夜は肝試しだろ」
そんな馬鹿げた提案をしたのも、案の定お調子者の智也だった。
「まあやっぱりそんな話になるよな」
普段は冷めた風を装っている彰良も、そういうイベントは嫌いじゃない。
「いやだよ、そんなの」
そこへ怖がりで心配性の京平が反論するのも高校時代から変わらない。
「なーに、お前怖いのかー?」
「そ、そんなんじゃないよ。ただ夜道で遊ぶのは危ないから」
「月が明るくて、問題ないって。お前が心配なのはオバケなんだろ」
子どもっぽいセリフで智也が彼をからかうのは、昔から本当に変わらない。
*
「私と由佳ちゃんは、やめときなさいって言ったんですが」
「そうそう、ここで楽しくおしゃべりでいいじゃないってね」
私たちは、男どものつまらない意地の張り合いを止めようとしたが、
「わかります。そういう場面で女性からの助け舟は、逆の効果を誘発しますね」
太田さんが言うとおり、京平も引っ込みがつかなくなったのか、それならやってやろうと、肝試しの開催が決まった。
「俺が悪いんだよ。あいつが怖がりなのは知ってて、つい……」
彰良が苦しそうに言い訳するが、残念ながらもう遅い。私も由佳ちゃんも無理に止めはしなかった。いや、その時の私は面白がっていた。正直に言えば。
*
結局、男性メンバーが一人ずつ、小亀ビーチから《亀の井のお堂》まで歩いて行き、亀石に水をかけ、そのシーンをスマホで撮影してくることになった。
「言い出しっぺの俺からスタートするよ」
まずは智也が夜道のなかを出かけて行った。そのまま彼の肝試しは何事もなく終わり、亀石に水をかけるスマホの写真を誇らしげに見せられた。
次に、京平が出て行った。この順番は彼が自分で決めたことだ。
「なんとなく最後は怖いから」
弱々しく笑った顔が、私の見た京平の最後だった。
*
「それから五分くらいしたでしょうか、すごい悲鳴が聞こえたんです」
「それは京平さんの?」
「男性の声でした。間違いなく京平だったと思います」
「悲鳴ってのはどんな言葉でしたか? やはり、ギャーッとかですか?」
文学を研究する太田さんは、言葉の細部を気にする人らしい。
「いえ、それが……」と、私が言い淀み、由佳ちゃんを見た。
「けむり、って聞こえたと思います」
「けむり? けむりって、あの煙ですか。焚き火とかから昇る」
意外な単語が出たことで、太田さんが戸惑っている。それはそうだろう。肝試しで煙なんて普通は出てこない。
「わかりません。ただ、そう聞こえたと。あとで皆で何度も話し合いましたが……」
由佳ちゃんが私たちに視線を送る。彰良が頷いた。私も頷く。
*
悲鳴の後、あの絶望的な音。
ドボン
水に何かが落ちる大きな音を聞いた私たちは、お堂へ向けて駆け出した。
暗い木々の間を走り抜けて高台の上に出る。月に照らされた草原。ざっと辺りを見回し、お堂の前に向かう。そこで見た途切れたロープ。ああ……
*
「ロープの切れ目の先、湖上で京平さんを発見されたんですね。昼に自分も行きましたが、崖の高さは三mくらいでしたか。それでよく、すぐに京平さんだとわかりましたね」
「ん? それはどういう?」
私が話し続けるのは、辛くなってきたと気づいたのか。太田さんの疑問を受けて、彰良が聞き返してくれる。
「いや、やはり事故に遭ったのが友人だとは、なかなか信じたくないじゃないですか。まあそんなに何人も人が落ちてるはずはないのですが。それでも暗いなか、すぐに本人だと気づいたのは、なぜかなと」
「ああ、それはですね。彼はこっちに顔を向けてたんですよ。それですぐに」
「こっち? つまり彼は仰向けだったと」
「そうです。京平は背泳ぎでもするように体を大の字に広げて、仰向けで浮いてました」
「それで救助に行ったんですか? 湖はかなり深そうでしたが」
「警察によると、あのあたりで水深十mくらいだそうです。救助には智也が行きました」
「智也さんが?」
「最初は俺が飛び込もうとしたんですが、あいつに制止されて。眼鏡が危ないと」
「なるほど、確かに夜の湖面で眼鏡が外れたら……」
「正直、助かりました。慌てて飛び込んでいたら、俺も危なかったかもしれない」
「しかし智也さんは暗いなかで、よく湖へ飛び込めましたね」
「あいつはクーラーボックスを持ってたんですよ。浜辺で食べるアイスを運んだので」
「それはまた……、用意の良いことで」
「宿から無理を言って借りてきたんで、手離さなかったのかな」
「そうそう覚えてるよ。肝試しの時も、あいつクーラーボックスを担いで行ったよね」
由佳ちゃんの特技は記憶力。変なことをよく覚えている。彼女の言うとおり、あの時、智也は確かにクーラーボックスを肩にかけ、肝試しに出て行った。
「智也さんが飛び込んだあと、皆さんはどうしたんです?」
太田さんが話の先を促す。
「水遊び場のビーチへ走って戻りました。あいつがそっちへ運ぶって叫んだので」
「小亀ビーチでしたっけ。えーと、そんなところまで?」
首を傾げる太田さんに、由佳ちゃんが観光案内のパンフレットを指し示す。
「先生ほら、この地図を見ればわかりますが、お堂のある高台と小亀ビーチは、直線距離だと近いんですよ」
「ほうほう」
小さな高台の半島はJの字を逆さまにしたような形で湖に突き出している。なので遊歩道を戻るには大きく回り込まなければならないが、水上をまっすぐ進めば、かなり近い。
「ああ、それでアイスを食べていた時に、お堂からの悲鳴がよく聞こえたんですね」
パンフを見ながら太田さんは、ウンウンと頷いている。
私たち三人が大急ぎで小亀ビーチへ駆け戻ったのと、智也が京平を抱えて浜に上がったのは、ほぼ同時だった。
現場には医大生が二人。私も薬学部で救急救命の講習は受けていた。仰向けに浮いていた状況を考えても、当然、京平を助けられると思っていた。それなのに……、
「京平は左腕をひどく骨折し、頭を打っていました」
「頭を?」
「ええ、落下中に打ったのではないかと警察は言ってましたが……」
彰良が言い淀む理由が私にはよくわかる。よく整備された草地。オーバーハングした崖。充分に深い湖。どこで頭を打つと言うのか。左腕の骨折は、よろめき柵がわりのロープを掴んだ手が、落下の勢いで逆方向へ捻られたという説明に納得できた。しかし頭は……
「人工呼吸をしましたが、その時点でもう……」
「……医学生がお二人おられて、それでしたら……良いご友人だったのですね」
「すごいやつでした。成績も一番良くて」
「彼も医大へ?」
「いえ、由佳と同じ長野芸大です。京平なら医大でもどこでも行けたと思います。でもあいつは音楽の天才でした」
「音楽?」
「ええ、特にバイオリン。京平は弦楽器専攻で長野芸大の音楽科に入ったんです」
「すごかったんですよ。長野芸大始まって以来と騒がれて。あのまま事故がなければ、秋からフランスへ留学も決まっていました」
太田さんと彰良や由佳ちゃんが話す声が遠くに聞こえる。
周囲が暗くなる。
京平……ゴメン……
*
「辛いお話を無理に聞いてしまい、すみませんでした。それで今夜のフィールドワークとは、何をする調査する予定なんですか?」
太田さんの声に、私は現実世界へと帰ってきた。
眼前に明るい景色が戻る。
そう、大丈夫。私は大丈夫だ。
「いやね、その京平の最後の叫びなんですよ。気になってるのは」
彰良が務めて明るく話すのは、私の深刻そうな顔を見たからだろうか。
「あの、けむりってやつですね」
「そうです。京平が最後に見たのは何だったのか? その疑問がずっと俺たちの心に取り憑いていました。そこへ愛美が言い出したんです。もう一回、亀浦湖へ旅しようって」
この夏の試験が終わったあと、私は友人たちを慰霊の旅に誘った。
もう一度、あの湖のお堂へ行こうと。行って、あの夜を再現してみようと。
「何も起こるはずがない。もちろんそう思ってますよ、俺だって。でも……」
「皆さん、気になるわけですね? あの夜に何があったのか」
「そうなんです。それで今夜」
「《亀の井のお堂》へ行く」
「もちろん怪異なんて起こらないでしょう。ただ一つの区切りをつけたいだけなんです」
彰良は太田さんから私へ視線を移し、優しく微笑んだ。
「わかりました。そんじゃ、もしご友人の弔いのお邪魔でないなら、自分も参加させてください。これも何かのご縁ですし」
「ありがとうございます。じゃあこのあと十時に船亀ビーチで」
「夜の十時?」
「ええ、それが昨年、花火が終わって遊歩道に入った時間です」
彰良の説明に、太田さんは力強く頷いた。
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