第3話 出会い

 夕食が終わったのは夕方六時五十分ごろだった。夏のこの時期、まだ窓の外は明るい。

「とても美味しいステーキでしたね」

 食後は流れ解散。皆が食堂を出たあと、最後まで残っていたワタシは、隣のテーブル席でグラスワインを片手に本を読む女性に声をかけた。

「そうねー、赤ワインにちょうどよかったわ」

 人恋しくてつい声をかけてしまったワタシに、彼女は柔らかい笑顔で応えてくれた。

 観光旅行に来たのだろうか。ライトブルーの鮮やかなTシャツに、オリーブ色のダボッとしたオーバーオール。年齢は私たちより少し上ぐらい。涼しげな目元と爽やかなショートヘアが印象的な美しい人だった。

「突然、声をかけてすみません。ワタシは長野芸大に通ってる天野由佳っていいます」

「こんばんは。自分は東京の大学で教員をしてるオオタタワっす」

 グラスに残ったワインをクイっと一息に飲み干して、彼女はペコリと頭を下げる。どうやらかなりの酒豪のようだ。宿の女将さんが持ってきたボトルワインを、一本まるまる一人で空けている。

 このあと、皆と集合する時間は午後十時。まだ三時間以上ある。

「あの、ご迷惑でなかったら、一緒にお酒、飲んでも良いですか?」

 夕食時、友人たちと分け合ったワイン一本では、少し口が寂しかった。

「いいっすね。食事と一緒の赤はうまかったけど、夏はビールが恋しいやね」

「お、酒好きの由佳が、楽しそうなお話しをしてるな」

 食堂の入り口から顔を出し、声をかけてきたのは彰良だ。部屋に戻ったと思っていたが、彼も一人で暇を持て余していたらしい。

「オオタさん、こいつは友人で医者の卵の宮原彰良です。ご一緒してもよいですか?」

「ははは、大丈夫よ、酒を飲むなら大勢が楽しいさ」

  *

 宿のご主人が出してくれたクラッカーとチーズを肴に、三人で瓶ビールを酌み交わす。

「太田さんのご専門は古典文学ということですか?」

 もらったばかりの名刺を眺めながら、彰良が恥ずかしい質問をしている

「ちょっと、専門家に古典文学だなんて大雑把な括りは失礼でしょ。一口に古典て言っても、どんだけ範囲が広いと思ってんのよ」

 まったくこの男ときたら、理数系科目ばかり得意で、国語や社会科の勉強は医大入試のため最小限しかやらない。そんな割り切った高校生活を送っていたのだ。

「まあまあ由佳さん、自分も医大の勉強なんて想像もつかないので」

「そうですよね。ほら由佳、お前も俺が信濃医大で何やってるかなんて知らんだろ? それで、その太田さんのメインの対象は、どの辺で?」

「もー、聞き方が……」

「そう喧嘩せず。専門は日本の説話文学っす。今は宇治拾遺物語の各話を追ってます」

「説話!」その単語を久しぶりに聞いてワタシの胸がキュンとする。大好きな分野だ。

「すてき。じゃあこの石像を訪れたのは十三巻のあのお話で?」

 つい嬉しくて、専門家相手に生意気を言ってしまう。 

「おっと? 由佳さん、宇治拾遺物語を本気で読み込んでますね」

「好きだったんです。本当にそっちに進学するか、デザイン科へ行くか迷ったんで」

「えーっと宇治拾遺物語って平安文学でしたっけ?」

 なんとか会話に加わろうと、彰良はそんなこと聞いてるが、おいそれは間違っている。

「違うわよ。何言ってるの。平安期の説話集で有名なのは日本霊異記や今昔物語集でしょ。宇治拾遺物語の成立は鎌倉期です。ねえ多和先生」

 専門家に褒められて私の気分は最高だ。太田さんへの呼び方も『先生』に変わっている。

「そうっす。宇治拾遺物語の成立は承久年間ってのが定説で、これは承元四年から承久三年まで在位した順徳天皇を『当今』と表していることからも推察できます。ただまあ諸説ありますね。しかし建暦の初めに成立した『古事談』からも採録しているので、それより前ってことはないでしょう。あとですね巻一の序には宇治大納言つまり源隆国が編……」

「あ、あの、すいません」と、せっかくの先生の解説を彰良が遮る。

「宇治拾遺物語がいつ作られたのかは、わかりましたので」

 先生は先生で、自分が少し突っ走りすぎたことに気付いたらしい。

「いや、こっちこそすみません。毎回、空気読まずに話し続けるとよく言われます」と、照れたように話す彼女は、いかにも大学の先生という感じ。専門分野の話になると止まらなくなるようだ。ある意味、そんなに好きな対象があるのが羨ましい。

「でも、ここの石像が宇治拾遺物語に出てくるって話は興味ありますね。えーと十三巻に亀の話があるのですか?」

 自分勝手な話題転換をして気が咎めたのか、彰良が話を宇治拾遺物語に戻した。

「そうですね。宇治拾遺物語巻十三ノ四に『亀を買ひて放つ事』という話があるんですが、この湖に伝わる伝説は、その説話の変形だと、自分は考えてます」

 多和先生は座席に置いた自分のバッグを手に取り、A四の冊子を取り出した。表紙を見れば、それはここ蓼科高原の観光パンフレットだ。

「これの三ページ目、ここっすね」

 パラパラとページをめくり、手渡してくれる。そこには美しい湖の写真とともに、亀の石像や遊歩道の案内が載っており、先生が指差す下段には、一つのコラムがあった。

  *

 亀浦湖に伝わる亀の恩返し伝説

 蓼科高原、亀浦の湖には一つの伝説がある。ある日、山深くに住む杣人が銭を持ち村への使いに出た。しかし湖岸の道を歩いていると、漁師が捕らえた亀の前足を引き抜こうとしている。不憫に思った杣人は亀を買い取り逃してやった。

 銭を使い果たした杣人が手ぶらで家に帰ると、そこに正体不明の隻腕の男が現れ、濡れた銭を手渡したと言う。そのころ湖上では船が転覆し、漁師は亡くなったそうだ。

 杣人は漁師を憐れみ、手元に戻った銭で亀の形の石像を作り、湖の高台に祀った。その後、この亀石に水をかけ、漁の安全と健康を祈るようになったという。

                             蓼科高原観光協会

  *

「昔から、あの亀の石像は地域の人たちの間で信仰されていたんですね」

 由緒も知らずに水をかけていた石像も、その背景を知ると見え方が変わってくる。

「お堂の建立は十世紀後半と記録に残ってますが、亀石はそれよりも古いらしいっすね」

 自分のコップにビールをゴボッと注ぎ、再び先生の講義が始まった。

「宇治拾遺物語巻十三ノ四の話の舞台は天竺つまりインドです。登場人物も大きく異なるし、亀の石像も出てきません。つまりこの湖の亀石伝説は、巻十三ノ四の説話とは別なんです。そこから考えるに、西方から伝わった話が伝播するうち、この地方に元からあった亀の伝説と融合したと、自分はそう考えてます。ただそれがいつごろかってのが難しい。宇治拾遺物語は広く世間に伝わる説話を採録したものですから。まあそこが面白いところです。それでですね、巻三ノ十六にも同じように恩返しを題材にした話があってですね、これが題名を雀報恩の事と言いまして、こちらは老婆が腰の折れた雀を介抱して……」

 非常に興味深い。興味深いのだが……、またまた先生の話が止まらなくなってきた。

「えーと、すみません。でも、この亀の話って浦島太郎と似てますね」

 彰良が再び、かなり強引に話の方向を変えようと試みるが、

「いやいや鋭いですね彰良さん。そうなんっすよ。現代、広く知られている浦島太郎伝説は中世の御伽草子に由来しますが、この話の元を遡ると丹後国の風土記にその記載がある。ところがですね、同様の神話が今の中国南部や東南アジアにも広く伝承されていて……」

 あーダメだった。どうやらどこへ話題を持って行っても、先生の話は止まらないらしい。

  *

 そんな楽しい多和先生の講義を聞きながらビールグラスを傾けていると、窓の外に人影が見えた。今回の旅の同伴者の一人、親友の佐伯愛美だ。

「あれ? あそこを歩いてるの愛美か?」

 彰良がワタシの視線に気付いたようだ。

「食後の散歩っすかね。外はまだ明るいし、このペンションの夕食はレディにはボリュームが多かったですからね」

 クラッカーをバリバリ齧りながらそう話す多和先生も、確かレディのはずだが。

「そういえばあいつ、食後直ぐに缶チューハイ持って外へ出たみたいだけど、どこかへ行ってたのかな?」

「愛美がチューハイを?」

 メンバー全員、酒は強いほうだったが、愛美と缶チューハイの取り合わせは、いまいちピンとこない。

「ああ。一人で缶の入った袋を持って歩いてた。俺も付いて行こうかと思ったけど、なんだか深刻そうな顔していてな。声をかけづらくって、こっちへ来たんだ」

 わざわざワタシに言わなくても良いことを、彰良は無神経に話している。

 ワタシは知っている。彰良は愛美が好きなことを。

 でも、愛美は京平が好きだった。京平も愛美が好きだった。

 彰良はそれを知っていた……。そして、もう京平はいない。

「ちょっと俺、愛美も誘ってくるよ」

 彰良が席を立ったとき、壁にかかった振り子時計がポンと一つ鐘を鳴らした。目をやれば七時三十分。まだしばらくは飲めそうだ。

「もう一本いっとく?」

 ワタシの考えを読んだかのように、多和先生が空になったビール瓶をつっつく。

「頼んできますよ」

 ワタシはパッと立ち上がると、厨房へ通じるドアへと向かった。

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