第2話 思い出の湖

 林間の遊歩道を歩き始めて二十分。晴天の夏日が続く蓼科高原は、人気の避暑地とは思えぬほど気温は高く、体に熱が蓄積されていく。

 木々の濃い緑が陽光を覆い隠してくれるのが、せめてもの救いか。緩やかに登る階段の道を、軽く息を切らせながら上がりきる。

 目の前に、蒼い水面が広がった。

「ああ、美しい。ね、愛美?」

 隣に立った由佳ちゃんが、私の顔を覗き込み笑顔で問いかける。あの夜の悲しい記憶がチクリと脳を刺激する。その痛みを無理に覆い隠し、私は小さく頷いた。

「ほんと、綺麗だね」

 上気した頬を、気持ちの良い風が撫でていく。

 そのまま二人並んで草地のなかを歩いていくと《亀の井のお堂》の前まで来る。

 ひと足先に到着した彰良と智也が、手すりロープの前で手を合わせていた。

「早いな、一年」

 目を閉じたまま、ポツリと彰良がつぶやいた。

 一年前、北沢京平はこの場所から湖に転落し亡くなった。死因は頭部を強打したことによる脳挫傷と聞いている。私たち五人は、高校時代からの仲の良い友人だった。

 私と宮原彰良、高山智也の三人は信濃医科大へ進学し、天野由佳と北沢京平は長野芸大へ。卒業後の進路は別れたが、親交は続いた。昨夏も互いの大学の夏季休暇に合わせ、蓼科高原へ泊まりがけで遊びにきていた。その二日目の夜、あの事件は起きた。

  *

 皆で湖に向け手を合わせたあと、持ってきたミネラルウォーターのペットボトルを開け、お堂のなかに祀られた亀の石像に水をかける。古い伝説にも登場するらしい亀石は、人の胎児と同じくらいの大きさか。重厚な台座に、ちょこんと乗った姿は愛らしい。

 長い年月、ここで多くの人から水をかけられたのだろう。石鑿いしのみで掘られた造形は削れ、掠れていた。そのためだろうか、亀の表情はなんだかぼんやりと優しい感じがする。

 二千㎖のペットボトルを彰良、私、智也の順番でまわし、最後に由佳ちゃんが残った水を豪快に亀石の甲羅に注いだ。タイル張りのお堂の床まで水滴が弾け飛ぶ。大きな石の台座は少し内側に窪んでいて、甲羅から滴った水が薄く溜まった。その様子はまるで、石の亀が湖面に浮かんでいるような、そんな不思議な光景に見えた。

  *

 眼の前が、暗くなる。あの夜の光景が、眼に浮かぶ。

 切れたロープ。湖上の人影。黒い水面。滴り落ちる血の雫。クーラーボックス。

 蓋を開けて、あいつは何を、洗っていたの?

 あの夏、この場所で、京平の、夢は潰えた……

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る