ハイヌウェレ 火


 その夜。

 途方もない空腹感と口渇感で目が覚めた。

 今までにこんなことは無かった。私は常日頃より規則正しい生活を送ることを心掛けている。それ故非常に寝付きの良い体質であり、うなされたり催したりといったことが無い限りは安眠を継続することが出来た。だが、今の私は眠気すら吹き飛ぶほどの飢えと渇きに身悶えしていた。

 冷蔵庫を開ける。目に付いたのは、半玉の西瓜。数本の瓶入り牛乳。切らすことがないように補充し続けている卵。ふと揚げ出し豆腐が食べたくなって買ってきた豆腐。それに付け合わせるための大根。御中元で頂いた淡口醤油。揚げ出し豆腐は作る直前になって揚げ油が足りないことに気付き、その上どこの店も揚げ油が品切れだったので、結局作るのを止めた。

 その際に残しておいた白い豆腐を、水の張った鍋から引っ掴んで貪る。醤油も何もかけない。味付けする余裕すらない。今はただ、胃を満たしたいという欲求に身体が支配されていた。奥ゆかしい大豆の風味。しかし、豆腐は低カロリー。私の腹はまるで満たされない。

 次いで、これまた白い大根を先っぽから齧ると、「かーっ!」と思わず唸った。大根はやはり先っぽが辛い。根本を齧って、葉っぱも齧った。渋かった。口の中に苦いフィルムが張り付いたようなシバシバした感覚が広がった。もう一度、根本を齧る。しかし、口のシバシバはあまり取れなかった。

 口腔内の不快感を抹消するため、またもや白い牛乳を腹へ流し込む。たらりと口の端から牛乳が漏れ、寝間着を汚した。牛乳のシミは早いうちに洗わないと臭いが厄介である。だが、放置した。今の私にとっては衣服の悪臭より、この瞬間にもオートファジーを起こして筋肉も脂肪も消費しかねない、このひもじさの方が重要だったからである。

 豆腐は早々に尽きた。滓の一つも残さずに平らげた。そこからは大根をひたすら齧った。鼠が丸太で歯を削るように、がりがり、がりがり、齧った。辛いのも渋いのも我慢した。どうしても耐えられなくなったときは、また牛乳を飲んだ。一気に飲んだせいで、たまに鼻の穴から白いのが逆流した。それも舌で舐めた。

 大根が全て無くなる頃には、すでに空が白んでいた。


 @


 翌日。

 過食が祟って今度は腹痛と格闘する羽目になった。張った腹の中心部、ちょうど臍にあたる部分を裏側から綿棒で押されているような痛みだ。それがずっと続いている。

 夜通し大根を齧り続けた後、私はそれまでの睡眠時間を取り戻すように、ぱたっと眠った。その前後の記憶がない。窓の外から聞こえた、カラスのガァガァというゴミを漁る鳴き声が、私の最後の記憶だ。気絶していたものと思われる。起きた時にはおよそ五時間が経過していた。昼食を取る気分では無かった。昨晩の錯乱で、食欲がめっきり失せていたのだ。しかし、空腹感はあった。あった、というよりも、消えていなかった、と表現する方が適しているだろう。この私を安眠から叩き起こした忌々しいほどの食欲は、まだその邪なる牙を納めてはいなかった。

 そして、食欲よりも一層激しかったのが、喉の渇きである。冷蔵庫に置いてあった牛乳の瓶は全て空になった。転がっている瓶を数えてみると、総量は一リットルにも及んだ。それほどの量を飲み干しても喉は、水分を寄越せ、水分を寄越せ、となおも訴えかけてくる。まるで食べたもの、飲んだもの、それら栄養の全てが、私の身体ではない別な何者かによって、そっくりそのまま横領されているかのようだった。

 私は冷蔵庫を開け、半玉の西瓜を取り出した。小さい頃に読んだ絵本──半分に切った西瓜をスプーンで掬って食べるショウガラゴの絵本だ──を、今でもよく覚えている。西瓜をまるまる半分だなんて、子どもにはとても食べきれる量ではない。けれど、大人になったら出来るのかな。大人になったらやってみたいな。などと、密かな夢を抱いていたものだ。

 だが、今の私に幼少からの夢を実現させる余裕は無かった。赤い果肉に鼻の頭が付く間際まで、顔を接近させて、西瓜を貪る。甘味は無い。その代わり、水分はあった。皮まで齧る勢いで、西瓜を食べる。西瓜を齧る。西瓜を啜る。西瓜の汁をごくりと飲み込むと、件の腹痛が勢力を増して襲来してきた。

「人を呼んで西瓜割りをしたところで、味が味では招いた皆様に立つ瀬がありません。そういう視点では、昨日の失敗は間違いなく、成功の母と言えるでしょうね」

 そして、災厄を招く魔の左斜め上二十一度も襲来してきた。

 ちょうど台所にしゃがんで西瓜を喰っていたので、小娘の姿はシステムキッチンに阻まれて、首から上しか見えなかった。一方の小娘がいる位置からでは、私の姿は恐らくほとんど見えていないだろう。頑張っても髪の毛くらいだ。小娘はどうやら手提げ袋から何かを取り出したようで、がさがさという音が聞こえてきた。

「これは愛媛県産の真鯛です。見事に鮮やかな赤色をしています。じっくりと吟味しましたからね。きっと、それに見合った格別な味わいでありましょう」

 その後も小娘は、生ハムだのサーモンだのオリーブオイルだのモッツアレラチーズだのを取り出していった。出す際に一つ一つ産地と名称とこだわりポイントを述べていたので、シルエットが見えていなくてもどうにか把握することが出来た。

「今日はいろいろ作って、試食会と洒落込みましょう。カルパッチョとか、カプレーゼとか、合うと思うのですよ。まだ西瓜ありますよね?」

「すまん、いま食っている」

「トッピングなどは?」

「いや、そのままだ」

「何か付けた方が美味しいですよ、マヨネーズとか。あるだけで違うと思います」

 味なんてどうでもよかった。ただ、腹に入ればそれでよかった。

「なあ」

 私はシステムキッチンの上から腕だけをひょっこり出した。ぱっつん娘の声がした方へ人差し指を向ける。

「それ、くれないか」

「勿論。これだけの量、私一人では食べきれるとは到底思っていませんよ。それに、二人の方が意見の幅も広がりますからね。台所お借りしますよ」

「調理なんていい、時間がかかる。今すぐにくれないか」

 食器棚に掴まり立ちする私。赤い汁が棚の硝子戸に付着し、ずるっと滑った。身体に力が入らず床に倒れ込む。ふと目前には黒いソックスを履いた二本の足。見上げると、前髪を左斜め上二十一度のぱっつんに切り揃えた小娘がいた。小娘は何故か私のことを、仰天の形相で凝視していた。

「ちょっと、どうしたんですかその顔!?」

「西瓜を食べていたのだが、俺としたことが行儀の悪い食べ方をしてしまい……」私は顔を拭いて赤い果肉を落とした。ところが小娘はそんな私の頭部を鷲掴みにし、「一体これは何なのですか!」と、私の首をぐいと捻って食器棚の硝子戸に向けさせた。

 そして私は、その硝子戸に映った己の顔を

「一体これは何なのだ!?」

 と、仰天の形相で凝視した。

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