第29話 私と手を繋いでください!
今からおよそ一ヶ月前――――
ラモーン・ルッソは救済病院のコレラ患者用
吐き続けて生気を失った青白い顔を見る。
声を掛け励まし続けながら、自ら作った塩砂糖水を吸い飲みで飲ませていた。
下痢もひどく、赤ん坊に当てるような布のオムツを当てているが、水溶状の便ですぐびっしょりになってしまう。
看護のシスターに声を掛けて替えてもらってはいるが、回数が多く間に合わない。
三日目にもなると衰弱で
「がんばれクラウディア、少しでいいから飲むんだ……」
吸い飲みを口元に持っていく。
「ラ……モ……」
声になっていないが、時々うわごとのようにラモーンを呼ぶ。
自分がここから離れるともう永遠に会えなくなる気がして、ラモーンはずっと起きて彼女を励まし続ける…
「代わりますので少しお休みになってください……」
シスターが声を掛けてくれるのだが、彼はクラウディアから離れない。
四日目にクラウディアの体に
呼吸も浅く、意識が遠のく時間が長くなっている。
「クラウディア! しっかりしろ、死ぬな!」
ラモーン自身も
「ルッソ君、何か腹に入れて来い。その間私が見ているから。このままでは君の方が参ってしまう…ついでにその白衣も着替えて来いよ」
ジェファーソン先生が声を掛けた。
「やれやれ、お嬢さん。彼は君の想い人なのかい? 彼のためにも、元気になってくれ……」
先生は眠っているクラウディアにそっと声を掛けながら、脈を取った。
昨夜は容態が急変して、クラウディアは昏睡状態に陥った。
その時も、ラモーンが必死で彼女に話しかける声が一晩中聞こえていた。
ラモーンはフラフラと部屋を出て軽く食事を取ると、着替えて小用を済ませた。
そしてまた新しい塩砂糖水を吸い飲みに入れると、クラウディアのところに戻る。
病院の誰もが、クラウディアの回復を祈った。皆にもあのラモーンの声が聞こえていたのだ。
「頼む、クラウディア死なないでくれ……すまない、クラウディア……僕は今まで、自分の気持ちを君にちゃんと伝えていなかった。
僕は、ずっと君にそばにいて欲しい。君のことが必要なんだ……君のことを考えると、嬉しくて切なくて、どうしようもないんだ。
……君が、君が大好きなんだ、クラウディア……」
その声が一晩中響いていた。
五日目に少し状態が落ち着き、誰もがそれを奇跡のように思った。
「まさに神のお導きでしょう!」
マザー・ロザンヌが感謝の祈りを捧げる。
ラモーンはセドリックに看病を代わってもらい、少し眠ることにした。
いつものように手を消毒液に漬け、来ていた着衣を煮沸消毒用の大鍋に入れる。靴も消毒液を浸した布でよく拭い、ほとんど下着だけのような格好になった。消毒液に晒され続けた手がボロボロになっている。
でも、そんなことも気にならなかった……クラウディアが元気になるのなら、他のことなんてどうだっていい。
礼拝堂の長椅子に毛布をかけて横になった。
「クラウディア……」
呟いて、ラモーンは深い眠りの中に引き込まれていった。
* * *
約束のデートの日、動植物園の門をくぐったところで、
「……あの、お願いがあるんです……」
今はすっかり元気になったクラウディアのお願いに、ラモーンが振り向いた。
「何だい? クラウディア」
「わ、私と手を繋いでください!」
ラモーンの目が驚きで広がり、クラウディアの目線と出会う。すうっと彼の手が伸びて来てクラウディアの手を握ると、少し照れくさそうに笑った。
(なに? 今のラモーンの顔……初めて見た……)
その瞬間、クラウディアの胸がキュンと苦しくなった。
ラモーンの手はクラウディアのそれより大きくて、指が長い。
クラウディアより体温が高いようで、その手はほんの少し温かかった。二人の手の温度が交わり、1つに溶けていく。
(人の温もりって、不思議な感じ……)
この手さえ繋いでいれば、どんな細い困難な道も二人で渡っていける気がする……そう思うのは変だろうか……?
クラウディアはラモーンに手を引かれて、ふわふわと雲の中を歩いているような気持ちになった。
(私、この人と結婚するのね……)
繋いだ手の先に、黒髪の背の高い男がいる。見上げて目が合った。
思わず笑顔を返すと、戸惑ったような照れているような感情が伝わって来て、心の中が温かくなった。
* * *
ラモーンは『私と手を繋いでください』と頬を赤らめて言うクラウディアを見て、嬉しくなった。
正直言って昨日のクラウディアは、ご両親や兄君に
自分が看病してしまったせいで、仕方なく結婚するのか……と思うと申し訳なくて、そんなことをさせられないという気持ちで『本当に僕と結婚したい?』と尋ねてみた。
『あなたのこと好きだし、結婚してもいいって思ってる』と言われて、彼は自分の耳を疑った……
(それが本当なら、すごく嬉しい……!)
彼女がラモーンの助手だった1年間、無理のさせっぱなしで世話をかけることばかりだった。
(僕はクラウディアに甘えていたんだ……彼女が何でも『はい』って言ってくれるから……本当に申し訳なかったと思う……)
僕が手を握ると彼女の手は僕の手の中にすっぽり入ってしまって、愛おしさが込み上げて来る。
僕の熱でお互いの温もりが、プラスでもなくマイナスでもなく引き合って同じ温度になっていく。とても不思議な感覚だ。
リンデン動植物園の中を歩きながら、二人ともどんな動物も植物も目に入らず、手を繋いだお互いのことばかりを考えていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます