第21話 先生っ!急患です!


 ソーホー地区は、海を隔てた隣国からの移住者がもともと多い地区で、いかがわしい風俗店やバーの立ち並ぶ歓楽街と聞く。

 大昔は貴族の狩猟場しゅりょうばだったらしいが、いまはゴチャゴチャした街並みが続いている。


「このようなところにお知り合いのお医者様が……?」

「ああ、貧しい住民たちのために身を捧げようって、立派な心がけだろ?」


 表通りに馬車を待たせ、ヘンリーとクラウディアは路地裏に進んだ。

 馬車の中でマスクと手袋を着け、筆記用具を持って狭い路地から、建物の2階に進む階段を登る。

 特に表札は出ていなかったようだが、本当にこんなところに医者がいるのだろうか?


 2階の狭い通路に汚い身なりの人たちがうずくまっている。ヘンリーはその人々の間を縫うように進んでいく。


 突き当たりのドアに着くと、ドンドンと扉をたたきながらヘンリーが声を掛けた。

「センセー! 研究所のヘンリーだ。入るぜっ!」

 ヘンリーが勝手にドアを開けて中に入って行った。クラウディアも置いていかれないようにヘンリーに付いて行く。


 白っぽいカーテンで仕切られた向こう側から、

「おい、待て。今診察中だ!」

 と言う声がした。

「ああ、わかった。ここで待つぜ」

 ヘンリーが返事をすると、カーテンの向こう側で医者らしき男が誰かに話しかけている。

「……この添木は外さないように……ひと月はこのままで生活するんだ……」


 話が終わるとカーテンが開いて、腕に白い布を巻いた労働者風の中年の男が出て来た。

「せんせ、あんがとござんした……」

 男はアクセントが違う言葉で礼を言うと、出て行った。


 カーテンの向こうから焦茶色こげちゃいろの髪の男が出て来た。

「どうした? 急患か……」

 と言い掛けて、クラウディアを見て止まった。


「今日は仕事で来た。この辺りの例の伝染病の患者のことを聞きたい」

 ヘンリーが医者の目線を遮るように前に立って説明した。

「こちらの女性はロシフォール錬金術研究所のクラウディアだ」


「はじめまして。クラウディア・クラウカスと申します。お忙しいところすみません。少しお話をお伺いしたいのです」

 クラウディアがそう言うと“センセー”と呼ばれた男は、着ていた汚れた白衣で手を拭くと、右手を差し出した。

 

「私は医者のジェームズ・ジェファーソン、よろしく」

 その手を握って握手を交わすと、何か薬品の匂いがした。


「んじゃあ、クラウディア、俺が聞くんで、筆記を頼む」

 ヘンリーがそう言うと、患者用のベッドにドッカリ座ったヘンリーが話し始めた。

 クラウディアはその横に立って、筆記の体勢を取る。ラモーンのラボではそれが普通だったので、なんと言うこともない。


「おいおい、それじゃあ彼女が大変だろ?」

 ジェファーソン先生が気遣って、自分の椅子を勧めてくれようとしたが、クラウディアは『慣れていますから、ご心配なく』と辞退した。


「それで、例の……」

「コレラ、だな。今日はまだ来ていないが、昨日は2人ほど来たぞ。レンガ職人の夫婦だったな……」


「住んでいる場所とか、仕事は?」

「このあたりの住人だ。夫はレンガ職人で、妻の方は工場勤めだそうだ」


「感染源は?」

「不明だ……だが、港で働いている親戚と食事をした、と言っていたな」

「どこで食事をしたかわかるか?」


「聞いてないな……」

「妻の方の工場はどこかわかるか?」


「紡績工場、とか言っていたな……」

「どこの工場か知ってるか?」

「わからん、紡績工場は沢山できたからな……」


 話をしていると、外が何やら騒がしくなって来た。それはだんだん近くなって来て、ドアが乱暴に開けられた。


「先生っ! 急患です!」

 その声に、ジェファーソン先生もヘンリーも立ち上がった。

 2人の男に脇を支えられた男が担ぎ込まれて来た。


「ベッドに運んでくれ!」

 先生がそう叫ぶと、男たちは病人を奥へ運び込む。

 まさにクラウディアの横を通り過ぎようとした時、いきなり男が嘔吐した。


 その水溶状の嘔吐物は床に撒き散らされて、運んでいた男たちも思わず手を離してしまった。床に転がった男は助けを求めてクラウディアの方に手を伸ばした。


「先生っ、ベッドへ!」


 クラウディアは男の横にかがみ込むと、肩に捕まらせて支えようとした。

 すばやく先生が反対側を支えて、ベッドに運ぶ。

 どうやら下痢もしているらしく、男の体から異臭がしている。


 先生は男をベッドに横向きに寝かせると、大きな桶を横に置いた。


「悪いけど、今日は帰ってくれるかな。そこの君は手をその薬液で消毒してから帰ってくれたまえ」


 クラウディアは次の瞬間、こう叫んでいた。

「手伝います!」

 

「えっ?」

 ジェファーソン先生と、ヘンリーが同時に驚いた。


「床も掃除しなくてはいけないし、その人の着替えもさせなくてはいけないでしょう? 1人では手が足りません。掃除用具はどこです?」


「クラウディア! 頭がおかしくなったのか? コレラだぞ!」

 ヘンリーが叫ぶが気にしない。

「ヘンリーは先に帰って、このことを報告してください。お願いします」


 ヘンリーは青ざめた表情で帰って行った。


「本当にいいのかい?」

 ジェファーソン先生が心配そうに聞いて来る。

「ええ、後できっと兄が万全の消毒体制でやって来ると思います……」


 クラウディアは床の嘔吐物を片付けながら、返事をした。

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