第7話 どこのラボでも喜んで

 もうすぐ下宿というところで突然呼び止められ、クラウディアは心臓が飛び出しそうになった。


「クラウディア、ごめん、そんなに驚かないでくれ…」

「ハァ…。ラモーン様…」


(まったくもう、驚かさないでもらいたいわ!あ〜びっくりした…)


「…暗い街角で、いきなり女性を後ろから呼び止めたら、驚かれて当然と思いますが…どうなさったのです?」

「ごめん、申し訳ない…どうしても、君と話がしたかったんだ…」

「わかりました。手短にお願いします」


 クラウディアは毅然と向き直って、ラモーンの顔を見上げた。

 暗いので細かくは観察できないが、やはり少しやつれて見える。


「クラウディア、戻って来てくれ!…頼む!」

 ラモーンが切羽詰まったように声を上げた。


「…そ、それは前にも申し上げたとおり、所長の指示による人事異動なので、私にはどうにもできません…」


(…って言うか、戻りたくないし!)

「…君は、今の所長の弟のラボがいやなんだろう?」


(え?…どうしてそう思うの?嫌じゃないに決まってるでしょ!)


「業務命令ですから、イヤとかそうゆう個人の都合は関係ありません。ですが、所長の弟君のアラン様にはよくしていただいております」


 ラモーンはクラウディアの言葉に、黙って下を向いた。そして少しの沈黙の後、苦しそうに言葉を絞り出した。


「…君は、僕のラボに戻りたいんじゃないのか?」

(…そんなこと、一言も私は言ってませんが!)


「申し訳ございませんが…私はあの研究所でお仕事をさせてもらえるのでしたら、喜んで働かせていただきます」

 クラウディアはきっぱりと『どこのラボでも喜んで』と言い切った。


「何故だ…?」

(『何故って』なに?どうゆう意味?)

「ラモーンさま…?」


「僕は、君の意見を聞いて来たじゃないか!君の考えを聞いて、それが世の中の人のためになるような研究にして来たじゃないか!」

 ラモーンの手が動いて、クラウディアの両肩をがっちりとつかんだ。


「っ、…離してください!」


 ちょうどその時、通りかかった人がいた。

「クラウディア?」

(同じ下宿の一つ下の階の女性だ。赤い髪で勝気な性格の、確か『アンナ』と言う名前だった…)

「アンナさん!」


 その声で、ラモーンがパッと手を離した。


「クラウディア、大丈夫?」

 と心配そうに見つめて来る。

(よし、助かった!アンナさん、ありがとう)


「そう言うことで、ラモーン様、何か言いたいことがございましたら、所長におっしゃってってください。それでは、ごきげんよう」


 クラウディアはアンナの手を引っ張ると、下宿の方に歩き出した。

 ラモーンから遠ざかったところで、ホッとしてアンナから手を離した。


「どうしたの?彼氏、ちょっと怖い顔してたわね」

 アンナが話しかけて来る。

「ええ、ちょっと職場でいろいろあって…」

「よかったら、たまには私の部屋でお茶でも飲んで行かない?」

 クラウディアは、今の出来事で少し動揺してしまった心を落ち着かせたくなって、ありがたくそのお誘いを受けることにした。


 アンナの部屋は女性らしい装飾で飾られていて、いい匂いがした。

 カーテンもシックな赤系でゴージャスな雰囲気だ。大きな化粧台には色とりどりの化粧品のビンが並んでいる。


「今お茶を淹れるわね。お湯をもらって来るわ」

 アンナはそう言うと陶製のポットを持って、階下に降りて行った。


 この下宿は一階に炊事を行う場所と給湯室がある。各部屋には煮炊きをする設備がないので、それぞれが炊事場で炊事をする。

 食事付きの下宿もあるが、ここの住人は職種も働く時間もバラバラなので、自炊だ。その分時間の自由も効くし、食費がない分家賃が安い。


 アンナが戻って来てお茶を入れ始めた。ポットから甘い香りがする。

「カモミールのお茶を淹れるわね」

 甘く清々しい香りが鼻腔をくすぐる。

「いい香りね」

 クラウディアが言うと、アンナがにっこりして

「カモミールにしたわ」

 と言う。

 カモミールには神経の鎮静作用もあるので、彼女なりの気遣いなのだろう。


「それで…いったい何があったの?」

 今までのクラウディアなら、個人的なことを他人に打ち明けるなんて想像すらしなかったことだが、今はなぜか話してしまいたくなって、重い口を開いた。


「私、一年前にあの人に『将来は結婚を前提にお付き合いをしてほしい。君のその頭脳と、僕の頭脳を足して2で割った子ができれば、この世界はもっと良くなると思わないかい?』と言われたんです…」

「すごい…プロポーズじゃない…?」


 クラウディアは、その後自分の身に起きた事と、助けてくれた恩人が研究所の所長の弟だったことなどを、時系列で話した。


「そうなの…じゃあ、さっきの彼の行動は “嫉妬”というわけね」

 クラウディアは『エッ?』と思った。


『“嫉妬”… ですか?」

「そうよ、ほかに何があるの?」

「か、考えつきませんでした…嫉妬…なんて」

「毎日あなたをここまで送って来るくらい、あなたのことを想っていたのよ。それが突然、横から他の男にかっさらわれたんだから、ショックよね〜」


(ええーーーーっ!そうなの?そうなの?そうなのっ?)


 クラウディアは心の中で盛大に叫んでいた。


(いや、いや、いや…アランは私のこと別になんとも思ってないと思うし、アシスタントが欲しかっただけだと思う…たぶん。ラモーンだって私のこと、いくらコキ使ってもいい便利な小間使いとしか思ってないと思うし!)


「あなたも罪よね〜。二人の男を手玉に取って…罪な女ね〜」

「いえ!違います、私はそんな!…今のお仕事をさせて頂いてるだけで、本当に満足なので…」

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