第6話 この世に足りないもの?

 厨房でパスタと皿、フォークを借りて戻る途中、給湯室に寄る。

 三人分の紅茶を入れるためだ。


「クラウディア!」

 不意に呼び止められる。振り向くとラモーンが立っていた。


(なんか、前より髪もボザボサ…白衣もすっごく汚れてる…)


「どうしたのですか、ラモーン様?」

 思わず聞いてしまった。もう私には関係ないんだと思いながらも、気になってしまう。

「クラウディア…戻って来てくれないだろうか。…君がいないと研究が進まないんだ…」

 いつになく辛そうな表情に、クラウディアも心が揺れる。


「…そうおっしゃられましても、所長命令での異動ですので。ラモーン様も、新しい助手をお願いしてはどうですか?」

「…他の誰かじゃダメなんだ…君でなきゃ…」


 ラモーンの追い詰められた表情に、なんだか危険なものを感じて、

「ごめんなさい、今所長にお茶を頼まれたところで、急いでおりますので失礼いたします!」

 と言って、三人分のお茶をトレイに載せると、クラウディアは駆け戻って行った。


(ふう、なんだかラモーンの様子がおかしかった…大丈夫かしら?)


 そんなことを思いつつアランのラボに戻ると、二人のイケメンが楽しそうに談笑している様子が目に入り、すっかり忘れていく。


「お待たせしました。食後のお茶を淹れて来ましたわ」

「クラウディア!ありがとう。君は本当に気が利くね」

「クラウディア、ご馳走様。悪かったね、すっかり君の言葉に甘えていただいてしまって…」


(本当に華やかで素敵なご兄弟…眼福だわ〜)


「お茶をどうぞ。あ、その前に、できたてのこちらを一滴…」

 クラウディアは先ほど抽出した薔薇の香料をスポイトで一滴ずつ、紅茶に垂らした。

 紅茶のカップを口元に寄せて、アランと所長が匂いを吸い込む。

「う〜ん、いい香りだ!」

「薔薇の香りの紅茶か、商品になりそうだな」

 所長までもが感想を述べてくれる。


 クラウディアは自分の分のパスタを茹でながら、実は香料の使い道を一つ考えていた。

「クラウディアはこの香料を何に使うんだい?やっぱり、香水とか?」

 アランが紅茶を飲みながら尋ねる。


「香水も良いのですが、それはもう他の方がやっていらっしゃるでしょう?

 私はまだ、この世に足りないものを作りたいんです」

「この世に足りないもの?」

 所長も、振り向いてクラウディアを見る。


「美しい女性がキレイなドレスを着て、良い香りの香水をつけている…それって普通ですよね。私はそれほどキレイでないところで薔薇の香りがしたら、どうだろうと思うんです」

「それほどキレイでないところ…?」

「例えば、トイレです」

「は?」

 所長とアラン、二人の顔が『?』になってクラウディアを見つめた。


「こんなことをお二人にお話しするのは気が引けるのですが、私は “良い香りのするトイレ” を見たことがありません。それと言うのも、いまだチャンバー式の『貯めてから捨てる』トイレが主流だからです。

 本来、貯めずにその都度処理していれば、悪臭の温床になることもないと思うのですが…現実は貯めたものを川に流し捨てているだけです」


「そ、そうだね。この大都市リンデンでも未だその問題は解決されていないね」

 そう言うと所長は、腕を組んで椅子に座り直した。

「それで、薔薇の香料との接点はなんだい?」

 今度はアランが興味深そうに尋ねた。


「川を浄化するには、大規模な浄化施設の建設が必要ですので、それは私たちが個人の力でどうこうできるものではありません」

「そうだね、いずれ行政が注力すべき問題だね」

「はい、そのとおりです。ですが…」

「ですが?」


「ほんの僅かでも貢献したくて『汚物をゲル状に固める』という研究の提案をさせていただいたことがあります」

「…そうだったかな?」


(所長は覚えていらっしゃらないのだわ…仕方ないわね。汚物を使った実験が必要だもの。そんなの許可できないわよね…)


「画期的じゃないか!兄さん、何で許可しなかったんだい?」

「…アラン、落ち着いて考えてみろ。ラボ内に汚物を持ち込むんだぞ…?」

 アランは、“アッ”と驚くような顔をして黙った。


「それで、その時に固めるための材料として『海藻』を使ったのですが、逆にそれに香料を混ぜ込んではどうかと思ったのです」

 クラウディアは茹で上がったパスタを皿に守りながら、説明を続けた。


「実験してみないとわからないのですが、良い匂いのするゲルでトイレの匂いも軽減できるかもしれません」

「兄さん!それなら…」

「アラン、ここでは所長と呼んでくれ」

「わかった。所長、汚物を使わなければいいんだろう?それなら、やってみても良いんじゃないか?」

「…まあ、それなら…。お前のラボの研究のひとつにしてもいいんじゃないか?」


 クラウディアはパスタにバジルソースを混ぜて、二人の話が落ち着くのを待った。


(アランが私の提案の背中を推してくれるなんて!…すっごいラッキー!)


「ね、クラウディア、そうゆうことだから。あ、君は昼食がまだだったね。君は昼食を食べたら、午前中の続きをやってくれるかな。僕は予算を貰うために、ちょっと人と会ってくるよ」


 アランがそう言うと、お茶を飲み終えた二人はラボを出て行った。


 クラウディアは、一人になったラボでゆっくりとバジルソースのパスタと、薔薇の香りの紅茶を楽しんだ。

 あの時、夜の街でアランと出会ったお陰で、クラウディアの人生は急に光の当たる道を歩き始めたようだった。



 薔薇の香りの紅茶とバジルソースパスタを堪能した後、クラウディアは午前中に続き、ローズウォーターの抽出に勤しんだ。日が落ちて暗くなる頃には全ての抽出を終え、小瓶の4分の1ほどの量ができ上がった。


(アラン、今日はもう戻ってこないのかしら…)

 終了を告げる鐘が先ほど鳴ったのだが、帰らないラボの主人を待って、クラウディアは道具の片付けをしていた。


 ドアをノックする音がして、出てみると少年がメッセージカードを持って立っていた。

「クラウディア様にアラン様から伝言です」

 お礼を言って受け取ると、カードにはキレイな字でこう書かれていた。


『クラウディア、すまない。今日は遅くなりそうなので、先に帰っていてくれ。アラン』

(アラン、私が帰らずに待っていると思って伝言をくれたのね。ふふっ、心配こころくばりが本当にお上手。それに、キレイな字…)


 クラウディアは嬉しくなってカードにチュッとキスをした。

 着替えて灯りを落とすと、ドアを閉めてラボを後にした。

 研究所の門のところで守衛さんに挨拶をすると、今日は真っ直ぐに下宿へ帰ることにする。何故なら、ロシフォール家から借りて来た本が待っているからだ。


(ああ、早く帰って昨日の続きを読みたいわ!た・の・し・み!)

 クラウディアはワクワクが止まらない。それほど本が好きなのだ。


 繁華街の喧騒を抜け、もうすぐ下宿というところでいきなり誰かに声を掛けられた。

「クラウディア!」

「ぅあっ!?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る