約束

掴んでいる手首を引き寄せ、薬指の根本を顔に近づけた。かすかに指輪をはめている跡があった。

「玄瀬くんは明水さんを助けても、その先の人生を一緒になることはできない。それどころか一夜の関係すら発展しないだろう。玄瀬くんに対して好意など微塵も残っていないからね」

 玄瀬は美奈穂の肩を揺さぶった。

「そんなことないよな。俺が助けたら好きになってくれるよな。だって高校のとき付き合ってたんだから。ハグもキスもした。セックスはまだだけど。明水さんのために俺は守り抜いてきたんだ。だから、ここから明水さんを救い出して愛し合おう。大丈夫。優しくする。そこでもう一度、『みなほ』って呼ばせてよ」

 顔を上げた美奈穂は犬歯を見せながら凄まじい力で玄瀬の腕を払った。

「気持ち悪いんだよ」

 美奈穂のサイドの髪の毛が顔を覆い隠すので、手で耳にかけたとき、平手打ちが頬に飛んできた。

「ずっと気持ち悪かったんだよ。高校のときから。私の身体しか興味ねえだろお前は。だから三ヶ月で別れたんだよ。ハグもキスもずっと気持ち悪かった。今でもトラウマになってんだよ」

 美奈穂は怒涛のごとく、玄瀬に感情をぶつけた。今まで生きてきた中で最も傷つくことを言われているはずなのに、愛する美奈穂が荒れている姿を見ると、頭が冷やされていくような気がした。何でもできる気がした。

「玄瀬くん」岡崎は言った。「そこまで言われているけど、まだ明水さんのこと愛してる?」

「もちろんです」

 玄瀬は岡崎に背を向けながら頷いた。

「二人が逃げても一緒になることはない。でも玄瀬くんと明水さんが長針と短針になって時計になったら、一時間に一度は必ず会える。愛し合うこともできる。大丈夫。痛みは感じない。眠りから覚めたら一緒の時計の中にいられる。長くは生きられないかもしれないけど、最期のときも苦しまない。玄瀬くんは明水さんなしで長生きなんか求めてないだろう? 信じてくれるなら明水さんを連れておいで」

 振りほどかれて行き場をなくした腕をもう一度、美奈穂へと伸ばした。美奈穂は背を向けて逃げようとするがすぐに両手を細身の身体に巻き付けた。高校時代、初めてのデートで行ったカラオケの四曲目の間奏でハグをした記憶が瞼の裏に映し出される。ゆっくりと身体を離し、岡崎のもとへと向かいだした。

「ちょっと、本気? やめてやめて死にたくない!」

 半狂乱になって腕を不規則に振り続ける美奈穂にゆっくりと振り向いた。

「俺と美奈穂は一緒になる運命なんだよ。高校の時から決まってた。大丈夫。岡崎先生は約束を守る人だから」

 岡崎の前に立つと、暴れる美奈穂を岡崎は再び結束バンドで拘束した。

「玄瀬くんは……、もういらないよね」

「もう逃げません」

 ずっとこびりついていた岡崎の笑顔は消え入るようになくなっていき、口元を固く結んだ真剣な表情で、手を差し出してきた。

「最高の作品を作ってみせる。約束するよ」

 大鳥のすすり泣き、美奈穂の慟哭がボリュームを小さいほうへひねり回すように小さくなっていく感覚だった。吐瀉物の饐えた臭いもわからない。玄瀬は岡崎の差し出した手を握り返した。

「よろしくお願いします」

 岡崎と玄瀬は目線を合わせたまましばらく握手をし続けた。

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