心変わり

 岡崎はナイフを美奈穂の首から離し、ゆっくりと大鳥のもとに立った。首には刃を当てられた跡が残っているが、傷ができたわけではなさそうだ。

 大鳥の前に立った岡崎は動かずに笑い続ける大鳥を見下ろしていた。ゆっくりと片膝をついてしゃがみこみ、大鳥の顔を覗き込むように近づけた。大鳥は開けっ放しだった口を閉じ、岡崎に唾を吐きかけた。岡崎の鼻に命中した唾はどろりと垂れ下がり、唇まで届きそうだった。岡崎はポケットからハンカチを取り出して悠然と唾を拭いた。大鳥はまた口内に唾を溜めている様子だったが、岡崎は鳩尾あたりに思い切り拳をめり込ませた。大鳥は呻き、裂けかけた口の端から溜まった唾が漏れだした。鳩尾から拳を抜くとすぐに反対の手で拳をつくって同じく鳩尾に命中させた。無感情に繰り返し大鳥の鳩尾を殴り続けている。大鳥は白っぽい吐瀉物をまき散らし、岡崎にかかったはずだが、一定のリズムを変えることなく重低音をアトリエに響かせている。

「正気を取り戻せ、大鳥くん。人間時計に入る人は正気でなければいけない。狂うのは誰にでもできる。僕が見たいのは時計に収まった人の普遍的な人生なんだ。特殊な人生は求めていない」

 玄瀬は痛む背中に力を入れ無理やり立ち上がって美奈穂のもとに駆け寄り、糸ノコギリで結束バンドを切り始めた。腕は自由になったが刃の切れ味が悪くなかな進まない。もともと使い古していたのか、刃がかなり丸みを帯びていた。しかし、岡崎が大鳥を殴り続けてくれたおかげで、美奈穂の結束バンドを切ることができた。

「ありがとう……」

「逃げよう」

「でもトリが……」

「あとでまた助けに行く」

 玄瀬は美奈穂の手首を掴んで立ち上がらせた。細い手首だった。親指と中指で輪を作っても第一関節が余るほどの細さだった。過度なダイエットをしているのではないだろうか。無事に抜け出せたらたくさん美味しい店に連れて行ってあげよう。「浩輔のせいで太った」と怒られるくらいに。

 美奈穂は大鳥のことを心配するわりには抵抗なく立ち上がった。なんという薄情なものだろう。しかし美奈穂が悪いわけではない。このような状況に置かれて、散々利用されてきた人物を助けたいと思う人間などいるだろうか。玄瀬は人間臭い美奈穂にますます惹かれていった。細い手首は弱さの象徴のようだった。そんな美奈穂をこれから守り抜いていかなければならない。

「た、すけて」

 何度目かわからない鳩尾を殴られたあと、大鳥の消え入りそうな声が届いてきた。美奈穂はもうドアの方しか見ていない。

「玄瀬くん」

 拳を引いた岡崎はしゃがみこんだまま玄瀬に振り向いた。

「うるさい」

「聞いて。そのまま明水さんと逃げるんだろ? そうすればいい」

「どうせまた変な脅し方するんだろ」

「脅しじゃない。事実を喋る」

 岡崎は立ち上がると、手を払った。大鳥の吐瀉物が床に飛び散った。わずかに赤いものが混じっているようだった。

「これ、なんだと思う?」

 岡崎はポケットに手を突っ込んだかと思えばすぐに取りだし、親指と人差し指で何かを掴んでいる。照明で反射するのは銀色のリングだった。

「返して! お願いだから」

 玄瀬が掴んでいる手首を振りほどこうと激しく体を揺らした。あの指輪はどうみても結婚指輪だった。

「明水さん、結婚してるの?」

 横から見た美奈穂は目線だけを玄瀬に向けているのがわかった。恋人もいないはずだろ結婚してないはずだろ俺だけの美奈穂のはずだろ。俺から離れたらだめだ。

「い、痛い! 玄瀬くんやめて」

 美奈穂は手首を掴む玄瀬の指を解こうとするが、熱加工を施したのかと思うくらい密着していた。

「明水さんは三年前に、東京で知り合った男と結婚したんだ。玄瀬くんの全く知らない男だよ。出会いは合コン。ちょうどそのとき明水さんはゴルフをやり始めたばかりだった。男はゴルフが大好きであっという間に意気投合。ホールインワンというわけさ」

 寒いギャグを言って申し訳ない、と岡崎はリングをまじまじと見つめながら言った。

「本当に結婚してるの?」

 玄瀬は美奈穂の顔を覗き込んだ。しかし、すぐに俯いてしまい、どんな表情をしているのかわからない。

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