発狂

 そうするうちに奥の部屋から荷台を引く音が聞こえてきて、玄瀬は両手を背中の後ろに回した。

 岡崎はテーブルの前まで荷台を引いてきた。荷台にはプラスチック製と思われる、半透明の巨大なケースが積まれてあった。それを両手に抱え、テーブルの上に置いた。刃の大きなノコギリ、鉗子、メス、注射器、点滴袋など医療器具と思われるものを次から次へとテーブルに並べていった。

「生きたままの人間時計をつくるために随分と勉強したよ。麻酔の打ち方、きれいな切断の仕方、薬の種類……。実際にホームレスの方々で試しながらようやくこの前成功したんだ。だから君たちはかならず成功する。安心してほしい」

 玄瀬は医療器具を組み立てる岡崎の姿を見て、背筋を冷たい指先でなぞられる不気味さが走った。手際の良さを見るに人間時計をつくるために尋常ではない努力をしてきたことを物語っていた。

 岡崎は完全に玄瀬に背を向けている。絶好の機会だ。服の生地がこすれないよう慎重に立ち上がる。岡崎は器具の組み立てに夢中で振り返る気配はない。

 このまま美奈穂の結束バンドを切って二人で逃げようか。逡巡したがすぐに思いとどまった。それでは美奈穂は自分に振り向いてくれない。大鳥を逃がすのも絶対に必要だった。それには合計四つの結束バンドを切り落とさなければならない。玄瀬は自由になったものの小さい刃で切るのは時間がかかるはず。やはり先に岡崎を攻撃し、行動不能にさせておくべきだった。

 岡崎との距離が間近に迫った。玄瀬は上半身をひねり、姿勢を低くして頭突きの構えを取った。岡崎へと踏み込む。途端、靴と床の小気味よい摩擦音が鳴り、岡崎が振り向いた。闘牛士さながらひらりと避け、玄瀬は支える姿勢を取れず腹がテーブルにめりこんだ。並べられた器具がわずかに浮き、ガチャリと音がした。すぐに立ち上がったが、目の前に岡崎がおり、一歩後退した途端、岡崎に胸倉をつかまれて異常な力で引き込まれた。間近に迫る岡崎の顔は固く結ばれている。体が宙に浮いており、その後すぐに背中に強い衝撃が走った。

「うぐううっ」

 背骨から激しい痛みが爆発する。すぐに起き上がらなければと思うものの、力が入らない。

「初めてあの父親に感謝しないといけなくなったな」

 床に倒れたまま岡崎を見上げると、小さく肩を落として身だしなみを整えていた。

「言ってなかったけど、小さいころ、父親に無理やり柔道を習わされてたんだ。『男は強くならないといかん』って言われて。黒帯取らないとどんな叱責が飛んで来るかわからなかったから必死に練習したよ。まさかこんなところで役に立つなんて」

 玄瀬はようやく動けるようになり、岡崎からの追撃を避けるために四つん這いで距離を取ったが、岡崎は玄瀬を追わず、美奈穂に近づいていった。

「玄瀬くん、どうやって結束バンドから抜け出したかわかんないけど、明水さん、殺してもいいの?」

 岡崎はポケットからサバイバルナイフを取り出し、玄瀬に見せつけるように美奈穂の首元に刃を当てた。

「やめてやめて殺さないでお願い。ねえ玄瀬くん!」

 岡崎と美奈穂のもとに這いつくばっていった。

「明水さんだけは殺さないでくれ。俺の大事な人なんだ」

「そんなこと知ってる。君はネットストーキングし、毎日の自慰行為で明水さんを思い浮かべるほど愛していることを。でも玄瀬くんは僕を裏切った」

「明水さんは人間時計の核なんだろ? 殺したら求める人間時計が作れないんじゃないのか」

「確かにそうだよ」岡崎は一拍おいて続けた。「ただ、主役は玄瀬くんだ。ヒロインが死んでしまうのは不本意だけど、防腐処理してなるべく作品の寿命を長くするように努めるよ」

 美奈穂の首に充てられた刃はより首に入り込んだ。美奈穂のすすり泣く声が聞こえてくる。

 すすり泣く声とは別に喉だけの笑い声が混じって聞こえた。狂気に取りつかれた岡崎が笑っているのかと思いきや、声の元をたどると大鳥が股間を濃くしたまま、高笑いし始めた。

「もうどうでもいい! おい早く時計にしてくれよ。俺時計になってセックスできるんだろ? 明水久しぶりに会ったけどかわいいしな! もう別に何でもいい! ははははは。おい変態野郎。さっさと時計にしやがれ」

 大鳥の口の端はもう間もなく裂けそうだった。大鳥の股間はさきほどより濃い部分が広がっていた。笑い声はアトリエ中に響き、岡崎は大鳥の様子を見つめている。顔にこそ表情はないが、鈍く光る眼球は大鳥を軽蔑しているようにも見えた。

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