濁った嫉妬

「おい、やめてくれ。すみませんすみませんすみません申し訳ございません申し訳ございません申し訳ございません」

 岡崎は包丁を持った腕を大鳥の頭上を越える高さに振り上げ、そのまま垂直に落とした。大鳥の悲鳴が破裂し、アトリエ中に拡散した。耳を塞ぎたいほど汚い反響だった。

 玄瀬は大鳥の背後から血が滲みだしてくるのをじっと待っていた。大鳥とは高校時代、いがみ合うわけではなかったが、特段仲良くもなかった。大鳥が美奈穂を都合よく使ったとわかった以上、殺されてしかるべきだと玄瀬は思っていた。希望が通るなら、大鳥のペニスを勃起させてから包丁で皮を剝いだあと、先端から細かく切り落としていきたい。根本まで到達したあとは陰嚢を切り裂き、中から睾丸を二つとも取り出し、大鳥の口に放り投げ咀嚼させる。「セルフ精力剤の味はどうだ」と言いながら……。いくら大鳥に痛めつける妄想を続けても血が床を這うのことはなかった。

「大鳥くん、次はないからね」

 岡崎が包丁を上げると、天井の丸い照明が反射していた刃は血に塗れていない。おそらく大鳥の手の後ろの床に振り下ろしたものと考えられた。

「うっ、うっ……」

 大鳥から情けないすすり泣きの声が聞こえてきたかと思えば、チノパンの股間部分の色がじわりと濃くなっていき、美奈穂と同じように尿が広がっていた。体の一部が切り落とされる恐怖を味わうとやはり漏らしてしまうのだろうか。

「耕くん……」

 美奈穂は大鳥に顔を向け、肩を震わせている。美奈穂のこぼした言葉には明らかに好意の感情が含められており、しかも大鳥を彼の愛称で呼んだ。

 大鳥に都合よく扱われ、しかもべそをかいて漏らした醜態を見てもまだ未練が残っているというのだろうか。手の痛みが強くなっても糸ノコギリの刃を握りしめる力を弱めることができない。美奈穂に恥をかかせないようにあえて放尿した俺のことは見向きもしないのに。なぜ? それならば美奈穂だけを救い出して完全に俺に気を持たせてしまおう。いや待て。そんなことをすれば美奈穂は助からなかった大鳥にさらに気がいくのではないだろうか。本意ではないが大鳥も助けるべきだ。

 岡崎は手に包丁を握ったまま玄瀬に近寄った。

「玄瀬くん、別に逃げ出してもいいよ。というか君が望むなら君だけ解放してあげてもいい」

「は?」

「ただし、玄瀬くんを解放したら、あの情けなく泣いている大鳥くんを長針にする。そして大鳥くんには精力剤、明水さんには媚薬を常に飲ませる。そしたら長針と短針が重なったとき、どうなると思う? 大鳥くんと明水さんは本能の奴隷になり、舌を絡ませ合い、体の届く限り舐めあい、時間が許せば大鳥くんのものが明水さんの――」

「止めろ!」

 美奈穂と大鳥の関係を聞かされたときも想像しないようにかき消した。脳内で想像した映像が勝手に再生され、目の前で大鳥と美奈穂がまぐわい始めるのだ。想像を破裂させる。細かい塵となった想像の破片を頭で振り払った。明水さんと最終的に結ばれるのは俺だけだ。

「俺は……、岡崎先生に従うからそんなことしないでください」

 岡崎はにやりと笑みをつくった。メイクで無理やりスマイルを施したピエロに見えた。

「じゃあ、人間時計になってくれるね? 良かった。玄瀬くんありがとう。君の覚悟が無駄にならないように最高傑作にしてみせるよ」

 岡崎は少年のような笑みに変えて玄瀬に抱きついた。糸ノコギリの刃が見つかるのではないかとさらに強く握りしめたが、岡崎はすぐに玄瀬から離れた。

「それじゃ、器具取ってくるよ。いっぱいあるからちょっと待ってて」

 岡崎は早歩きでドアに向かい、奥の部屋へと姿を消した。

 大鳥は背骨を抜かれたように土下座の格好で項垂れている。口は開きっぱなしなのか、粘り気のある涎がだらりと床へ垂れていた。美奈穂は顔を上げ、時折玄瀬と目を合わせた。玄瀬は必ず笑みをつくるが美奈穂はそれを拒否するかのように目をそらした。

 糸ノコギリの先端をつまんで指先に力を入れると刃が床に当たってしまった。力みすぎてとうとう刃が折れてしまったと思ったが、ずっと密着していた両手首どうしが離れ、腕がぶらりと垂れ下がった。手を前に持ってくると、肩から肘にかけてじんわりとした痛みが広がってくる。ついに結束バンドを切ることができた。声が出そうになるのを空気ごと飲み込んだ。手が自由になれば足の拘束を外すことも容易で、すぐに切れることができた。あとは美奈穂と大鳥の結束バンドを切るだけだった。三人でかかれば岡崎はさすがに敵わないだろう。しかし大鳥は未だに嗚咽交じりの涙を流し、戦力になる気配がなかった。

 それに――

 大鳥の漏らしたところに近づくのはかなり抵抗があった。とはいえ、二人とも救い出せば美奈穂は必ず自分に振り向いてくれる。だが美奈穂の元へ立ち上がろうとするが脚が痺れ跪いたまま立ち上がれなかった。

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