大鳥耕
この状況から美奈穂を救い出すことができれば、もう一度好意を取り戻してくれるに違いない。そうなれば脇汗などほんの一部。美奈穂の白い首、程よい肉付きの腕や脚、柔らかみのある乳房、体液すべてを独占することができる。
SNSには恋人の存在をほのめかす写真は上がったことはない。友人と思われるフォロワーとのやりとりもくまなく確認したが、彼氏にまつわる内容は六年間で一度も出てこなかった。玄瀬は美奈穂に彼氏がいないのは疑いなき事実として確信していた。
「明水さん」玄瀬は声色に優しさを持たせ、目じりを細めながら口の端を限界まで持ち上げた。ピエロのようにいかにも人工的な笑顔であったが玄瀬は高校時代に美奈穂と交際していたときの笑顔ができたという自信で漲っている。
「絶対何とかするから、安心してほしい」
指先の肉に食い込んだ糸ノコギリの刃を結束バンドに押し当て、再び力を入れた。岡崎に腕が動いていることが見つからないよう視界に岡崎を捉え続け、慎重に手首だけを動かした。美奈穂は俯いてしばらく動かなくなったあと、小刻みに震えだした。泣いているのかと思い、顔を覗き込むが髪の毛で顔が隠れて表情が見えない。岡崎に視線を戻しかけたとき、美奈穂のしゃがみこむコンクリートの床が濃くなってきた。
美奈穂は長時間の拘束に耐えられず、失禁してしまった。玄瀬は下半身に血が盛んにめぐり出したのを感じるやいなや、すぐさま硬直し、ズボンの中心が妙な角度に盛り上がってしまった。美奈穂と付き合っていたとしてもこんな恥ずかしい姿を見せることはないだろう。いますぐ両手の結束バンドを引きちぎってすっかり固くなった下半身を握りしめたい。いやその前に美奈穂のもとに駆け寄り、漏らした尿をすくって保存容器に入れることは確実だ。拘束されていることがもどかしい。
玄瀬はペニスに力を入れていると自分自身も尿意があることに気づいた。岡崎の狂気を目の当たりにして気づかなかった。昨夜、アルコールを含んだせいで、いつもの寝起きよりも激しい尿意だった。
「玄瀬くん、こっち見ないで、絶対」
美奈穂は俯いたまま一言呟いた。その言葉には明らかに怒気が含まれていて、漏らした瞬間を見られたことがわかっているような口ぶりだった。その瞬間、玄瀬は下半身に入れていた力を抜き、ひと息に尿を放出した。パンツやズボンがまたたくまに生ぬるい尿に浸されていく。臭いは特にしないものの、不快さが身体の奥まで伝わってくる。
「明水さん、俺も一緒だって」
美奈穂は顔を上げるとすぐに玄瀬の下半身に視線を注いだ。その目は見開かれたまま表情ごと固まってしまった。
「あとで笑い話にしよう」
玄瀬は再び頬を持ち上げた。半分は意図的だったが、今度はほとんど自然に笑顔を作れた。しかし美奈穂の頬は固まったままで、下半身のあとに見るべきところを見失い、もう一度俯いてしまった。
結束バンドを引っ張ってみるが、まだ切れる気配はない。上手く力が入らず、切っているところがまばらになっているせいだと考えた。
微妙に室内の気圧が変わった気がしてドアを見ると、ゆっくりと開き始めていた。アトリエから岡崎の姿は消えていた。玄瀬はこれまで以上に腕に力を入れて刃を動かした。今なら力を入れることができる。しかし、またドアの奥から荷台を引く音がして、ため息をつきながら腕の動きを止めた。
「玄瀬くんと明水さんだけだと単なるラブストーリーになってしまう。もちろん陳腐なラブストーリーほど輝かしいけど、君たちの人生の物語はさらに深くなることを僕は知ってる」
ガラガラと荷台が引かれ、徐々に姿を現すと、影になっていた人物の顔が照明に照らされた。
「トリ……」
「ゲン、明水さん……」
高校時代のクラスメイトである大鳥耕もまた手足を拘束され、荷台の上で玄瀬と美奈穂へ何度も視線を往復させていた。岡崎は荷台に大鳥を載せたまま、美奈穂と一メートルほど距離を空け、美奈穂と同じように大鳥の脇に手を挟んだ。大鳥は体を歪ませて抵抗したが、あえなく持ち上げられた。しかし、途中で脇から手が抜けてしまい、大鳥の身体は床に落ち、大げさなうめき声が部屋に響いた。何事にも冷静で澄ました表情だった高校時代の大鳥の面影はどこにも見当たらなかった。
「玄瀬くん、なんで大鳥くんも連れてきたかわかる?」
岡崎は裸の人間が両手足を広げた絵が貼ってある壁にもたれかかった。
「おいふざけんなよ。膝とすねが痛えよ。助けてくれよ」
岡崎の尋問に答えが出てこないあいだ、大鳥の弱音が薄く聞こえてくる。大鳥は涙こそ流していないものの、頬が垂れ下がりほうれい線が深くつくられていた。床を叩く音が聞こえ、岡崎に視線を戻すと、ゆったりとした歩調で玄瀬に近づいてきていた。玄瀬は糸ノコギリの刃を両手で握りしめた。手のひらに食い込み皮が破けていそうだった。
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