明水美奈穂
玄瀬は縛られた手の平で床をさすった。何でもいい。結束バンドを切れそうなそうなものが欲しい。このアトリエは油絵具やキャンバス、油彩筆みたいに絵画だけ使われる物だけでなく、トンカチや電動ノコギリのようなものもあった。もしかしたら何か落ちているかもしれない。
岡崎がアトリエの隅の方で手袋らしいものをはめつつ何かしているうちに、尻を微妙にずらしながら手先に意識を傾けていた。右手の指先に何か触れた気がした。わずかに尻を浮かせて触れたもの近づき、掴むことができた。細長い物だった。握ってみると片面だけ食い込むような痛みを感じる。右の手のひら、指先に神経を尖らせた。細長く片側がギザギザしている。部屋を見渡し、右奥のテーブルの隅に電動糸ノコギリを見つけた。今握っているのはその刃だと確信した。これなら結束バンドを切れるかもしれない。玄瀬は後ろ手に縛られた状態から指で刃の端をつまみ、結束バンドに刃が当たるように調整した。加減が難しく、強くつまみすぎると刃がつっかえて落としてしまう。角度や力の強さ、切る位置を幾度となく修正していくうちに要領を得て、片手を動かして切れるようになってきた。とはいえ手が後ろに回されている状態で力があまり入らず、相当時間がかかりそうだった。
岡崎は半透明の手袋をつけた手でバケツとブラシを持ちながら戻ってきた。玄瀬の座っている位置がわずかに変わっていることに対して何も言ってこない。岡崎はポケットから黒ビニール袋を取り出して広げ、吐瀉物をすくってそれに入れていった。
「ショッキングな映像を見せてしまった僕が悪いから気にしないでね」
吐瀉物をあらかたすくい終わったあと、バケツにかけていた雑巾で床をこすり始めた。一度雑巾を絞ったあと、吐いたところにスプレーを吹きかけて再度擦り始めた。酸味のある臭いはじゃっかん残っているが、スプレーの柑橘系らしい香りが上書きしていった。掃除している姿は高校でよく見かける岡崎と何ら変わりなかった。
掃除が終わると、黒いビニール袋に手袋と雑巾を入れて口を縛り、バケツとブラシとともに片付けにいった。そのすきにもう一度結束バンドを切ろうと試みるが、すぐに帰ってきた。
「気持ちは落ち着いた?」
岡崎はいつもの笑みを浮かべて玄瀬に言った。唇を内側に締めていると、再びスマートフォンの画面を玄瀬の顔に近づけてきた。
「充電し終わったあとで撮った映像だよ。今回はさっきよりもグロテスクではない」
再生された動画には、先ほど切り刻まれた両角の死体は姿を消していた。代わりにテーブルには白い固形物に赤い染みが不規則に付いたものと髪の毛らしきものが置かれていた。
映像の岡崎は髪の毛の束を掴み、一本ずつ吟味しているようだった。選んだものはハサミで切り、束にしてもう一度はさみで切った。長さを整えているようだった。その後、その髪の毛に透明な液とスプレーをかけたあと、それをスマートフォンに近づけて髪の毛の束の先端を指でつついた。しかし髪の毛の束はしなることなく伸びきったままであり、ツヤがでていた。
「秒針の出来上がりだ」
岡崎が一言呟くと、秒針となった髪の毛の束は透明なケースに入れられ、画面から姿を消した。
「次は長針と短針を頭蓋骨から作る作業だ」
玄瀬は口から息を吐きだした。吐瀉物の臭いが漂い、身体の奥にさざ波が立つ。すぐに小波は鎮まり、胃液で炎症した喉がチリチリとした不快感に苛まれた。
岡崎が言った白いものは頭蓋骨だった。何度か砕かれ細長い欠片を選び、やすりで慎重に磨いている様子だった。あまりに長い作業だったのか、編集が加えられており、出来上がったものは先端が鋭くとがり、白鳥のような淀みない白さを極めていた。
「両角さんの秒針、長針、短針はこういうかんじで作った。でも玄瀬くんが主役の人間時計は両角さんとは全く違う工程、作品になる」
玄瀬はスマートフォンをポケットにしまって立ち上がると背後にあるドアを開け、姿が見えなくなった。玄瀬は握りしめていた糸ノコギリの刃の根本を掴み、手首を使って再び切り始めた。
「俺はまだ明水さんとキスしてしてないんだ。殺されてたまるか殺されてたまるか殺されてたまるか」
ドアの向こうから悲鳴が聞こえ、玄瀬はとっさに刃を握って隠した。次に音がしたのはカラカラという音だった。何の音か様々な物体を思い浮かべていたときに岡崎の後ろ姿が見えてきた。何やら荷台らしきものを引いているようだった。
「玄瀬くん、君が主役の人間時計はこれまでの最高傑作間違いなしなんだよ」
岡崎が壁になって荷台に積んであるものが見えない。しかし岡崎が方向転換すると荷台に積まれたものがすぐにわかった。
「嘘、でしょ……」
玄瀬は糸ノコギリの刃をつまむ力が入りすぎ、第一関節の筋に食い込んだ。荷台には玄瀬と同じように手足を拘束された美奈穂が乗せられていた。
「なんで、明水さんまで……」
「玄瀬くんと明水さんには長針と短針になってもらおうと思ってるんだ。玄瀬くんは毎日明水さんに会いたくて仕方がなかった。長針と短針は一時間に一度会うことができる。それまでは待ち焦がれて辛いだろうけど、その分会えたときの喜びはとてつもなく大きい。ここに玄瀬くんと明水さんのストーリーが凝縮されるんだよ」
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