ざわめき
もしかしたら岡崎はあそこにいるのかもしれない。しかし声を出して犯人を刺激すれば何をされるかわからない。玄瀬は捻った身体を何とか維持してドアを凝視した。
ドアの隙間から白い光が差し込んだ。光はゆっくりと大きくなっていく。玄瀬は姿勢を戻して眼球だけをドアに向け、耳を澄ませた。犯人を刺激しないよう冷静でいろと何度も心の中で唱えた。
ゆったりとした足音はしだいに大きくなってくる。玄瀬は心臓の収縮がこれまでにないほど激しくなっており、犯人に聞こえないように祈るしかなかった。
玄瀬は目の前に立つ犯人のライトブラウンの革靴に視線を向け、ゆっくりと上げていくとスキニータイプの黒ズボンを履いていた。さらに目線を上げるが相手の手先までしか見えない。手の甲に血管が浮き上がっているので男のようだった。わずかに頭を上げると男の手首に銀色の腕時計がはめられていた。
「あれ? 起きた?」
聞き覚えのあるどころか、すっかり聞き慣れたくぐもりがちな声にバチンと叩かれたような錯覚がし、頭を一気に上げると岡崎が口元を緩めながら玄瀬を見下ろしていた。心臓が割れる、もしくは全身にガラスの破片が凄まじい勢いで刺さってくるようだった。しばらくして岡崎の服がいつもの奇抜なものではなく、上下黒の一色で包まれていることに気づいた。
「ああ、やっぱり目が覚めたんだ。想像以上に長く眠ってたから睡眠薬を入れる量を間違えちゃったと思ったよ。けっこう勉強したのにおかしいなと思ったんだ」
「何を言ってるんですか? というかこれ何なんですか? え? もしかして岡崎先生がやったんですかこれ?」
冷静でいろ、と何度も念じていたにもかかわらず、手足の自由な岡崎が自分を見下ろしているという現実が、大きな困惑と怒りを発露させていく。
「玄瀬くん、約束通り、ゼニスはプレゼントするよ。その代わり、僕の作品になってほしいんだ」
「作品? 意味が分かりません。これやったの岡崎先生ですか? マジで怒りますよ」
岡崎はしゃがみこんで玄瀬と目線を合わせた。いつもと同じ笑みが顔にこびりついていて、一層、凶悪犯のように鋭く睨みつけてほしかった。
「ここは父の遺産で建てたアトリエなんだ。“住”には興味がないって言ったけど半分嘘でね。絵を描いたり作品を作ったりする場所だけは昔からあこがれだった。皮肉にも絶縁された父の遺産を使ってそれが手に入るとは思わなかったよ」
岡崎は玄瀬の質問には答えずアトリエについて語り出した。図工室に近いデザインにし、休日や放課後はこのアトリエに通い詰めてある作品の製作に没頭していることを部屋全体を見渡しつつ、細かい部品が並べてあるテーブルに手をついた
「僕は腕時計集めの趣味が高じて自分で時計も作るようになったんだ。これまで養った感性を存分に使ってデザインした時計はどれも素晴らしかった。でも何か足りなかったんだ」
岡崎は立ち上がって壁に貼られた人間の絵に近づいた。
「人には人生がある。人生とは前に進むことしかできない、時計と同じようにね。前に進めば喜びや悲しみ、怒りや憎しみ、単純に一つの言葉だけでは表せないグラデーションの中にある感情を抱く出来事に遭遇する。どんな人でも歳を重ねるとその人独自の物語を描いていくんだ。僕はそれを時計に表現したかった」
玄瀬は唾を飲んだ。途中で言葉を挟んだが聞こえている素振りはなく、ひたすら自分の世界に没入していた。玄瀬はもう一度アトリエ全体を見渡した。壁には窓が一つもない。もしかしたらどこかの地下なのかもしれない。逃げられるようなところはドアしかない。
「僕は人のストーリーをコンセプトに時計を製作したけどうまくいかなかった。何度も何度も、何度も挑戦したけどダメでね。何が原因か考えながら歩いているとき、向かいから歩いてきたおじさんと肩がぶつかったんだ。舌打ちされてね。無性に腹立たしかったけど、この人は家で奥さんとか子どもに疎外されてて、その苛立ちが表に出てしまったのかもしれないって思って粗だった感情を沈めたんだ。でもそのとき気づいた。コンセプトの核である人間、複雑な感情を併せ持つ人物が時計のなかに必要なんだって」
岡崎は玄瀬に向かってゆっくりと近づいてきた。革靴の底が床を叩いて響いてくる。しゃがみこむと岡崎は笑みを浮かべたままだったが、いつもよりも歪んでいるように見えた。
「僕に何をするつもりなんですか……」
「これを見てくれ」
岡崎は腕時計を玄瀬の顔の前に近づけた。ベルトは薄い茶色をしており、縦、横、斜めと不規則に皺が寄っている。時計盤は簡素なデザインだったが、不気味なほど赤く、ローマ数字で時刻が書かれていた。長針、短針、秒針はどれも白くて細いが、背景が異常に赤いので、わかりにくいということはなかった。
「この時計が何なんですか。僕を拘束する理由は何なんですか」
「まあ焦る気持ちはわからなくもないけど、一つずつ聞いてほしいんだよ」
岡崎は大きく咳払いして口を開いた。
「この時計はヒトでできている。人間、ね」
玄瀬は喉仏が上下した。もう岡崎が冗談で言っているようには思えなかった。
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