急転

 玄瀬は中央にある怪しげだが妙に惹きつけられる黒い腕時計のバンドをつまみ上げた。

「お目が高いですね」岡崎はわざとらしく両手をこすり合わせた。「それはゼニスのデファイ・スカイライン・スケルトン・セラミックっていうんだよ」

「ゼニスの……」

 名前が長すぎて最初の三文字しか追いつかなかったが、照明に反射したマッドブラックが放つうるわしい輝きにどうしても惹かれてしまう。

「腕に巻いてみてその腕でお茶でも飲んでみてよ。ただの麦茶だけど、格別においしく感じるよ」

「この麦茶がもともと高級なものじゃないんですか?」

「五十四袋入りで値段は二百五十円、ちゃんとスーパーで買ったよ」

 玄瀬は岡崎と笑いあったあと、時計を左腕に巻いた。色白の腕には余計に時計の黒さが際立つ。しかし、浮いているようなものではなく、さりげなくしかし気品漂う存在感を纏っていた。その腕で麦茶のコップを掴むとまるで高級な酒を嗜むようだった。

「玄瀬くん、そのゼニス似合ってるよ。あと、これからもっと良い時計を見に行こうか」

「もっと……」

 言葉を続けようとした玄瀬は突然、ぐらりと視界が傾いた。なんとか額ごと瞼を持ち上げるものの、それ以上に力が抜けてくる。眠たくて仕方ない。岡崎を必死に視界に捕らえる。ぼやけてきた輪郭の中で岡崎がずっと微笑んだままだった。

「飲めない酒を飲んで疲れただろう。しばらく寝ているといい。玄瀬くんはこれからが大事なんだから」

 岡崎の真意をつかみかねるなか、玄瀬はテーブルに手を突くが力が入らず頭をぶつけてしまった。しかし痛みは感じず、そのまま欲求にしたがって瞼を閉じると、開けることができず、しだいに意識を失った。


 目を開けると、薄暗い部屋の中にいた。いつも岡崎が連れて行ってくれる店内の雰囲気によく似ていたが、テーブルの上に工具があることから飲食店ではないことはすぐにわかった。見たことのないところだった。壁には人間が両手足を広げ、その指先には円と接している。既視感がある。まだ起きていない脳で記憶をたどると、レオナルド・ダ・ヴィンチの描いた作品であることがわかった。しかし、描かれている人物はどう見てもアジア人で微妙に異なっていた。真ん中に置かれたテーブルには細かい部品が貴重に並べられていた。円盤や針のようなものがあり、時計を連想させた。頭に滞留していた眠気が急速にどこかに吸い込まれるようになくなっていった。首を後ろに曲げると両手は後ろ向きに縛られていて力を入れても解けない。拘束された手首は結束バンドのようなもので縛られていて、対の方向に力を加えると肉に食い込んで痛みが増幅する。足首にも同じものが巻かれていた。

「なんで俺なんだよ……。俺なんか誘拐しても何にも得がねえよ」

 見上げると、トンボの翅のようなかたちの黒いシーリングファンがゆっくりと回転していた。鼓動が荒くなってきて、大げさに深呼吸をした。ここでパニックになればすぐ誰かに殺されるかもしれない。落ち着け、落ち着け、落ち着け。

 玄瀬は眼球の裏から脳を覗き込むようなイメージで途切れる直前までの記憶をほじくり出した。まだアルコールが残っているようで考えると軽い頭痛がする。それでも必死に掘り起こすと、岡崎がにこやかに玄瀬に話しかけたことだった。その跡がどうしても思い出せない。自分の想定以上に酔っていたようだった。

 ふと、先ほど首をねじって確認した手首を思い出した。もう一度見てみると、左手に黒い腕時計が巻かれていた。瞬間、脳に血流が濁流のごとく流れ出したような感覚が走った。

 岡崎先生の家に行って腕時計をもらったんだ――

 そこで酔いが限界にきて眠ってしまった。そのあと、岡崎の腕時計を狙いに来た強盗が岡崎と自分を誘拐したのだろうか。強盗なら金品だけ奪えば良いはずだ。

 部屋の周りをぐるりと見渡した。電動糸ノコギリや黒板、木製の幅が分厚いテーブル。学校の図工室の雰囲気とよく似ている。どこかの学校かもしれないと思ったが、学校とは違い窓が全くない。手足を縛られているはずの岡崎もどこにもいない。

 先ほど見渡した部屋にドアがあったような気がした。体ごと捻って後ろを見ると図工室のようなクリーム色のスライドドアではなく、真っ黒なドアがあった。どこか不穏で陰惨な渦がそのドアの方へ渦巻いているようだった。

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