友人としての贈り物

 ここだよ、と岡崎が指差したのは二階建てのアパートだった。ドアは一階にのみ七つ並んでいて、二階には窓が一つずつ備わっていた。単身車向けで二階も利用できると岡崎は言った。玄瀬の住むアパートに植えられている木の葉は全て落ちてしまっていたが、このアパートの樹木は全て葉が生い茂っていた。父親から莫大な遺産を継いだわりには庶民的なアパートに住んでいた。

「衣食住の“住”には興味がなくって、ある程度しっかりした服装と美味しいものとあと、時計があれば生きていけるんだ」

「彼女もいらないんですか」

「誰かと付き合えばその先には結婚がある。僕はあの父親を見ているからろくな旦那になれない。ましてや父親になんてね」

「絵も、ですか」

「絵は、いるね。もう趣味感覚だけど。今は時計に夢中だよ」

 玄関に上がるとすぐ右側には、まな板の置くスペースも十分に取れなさそうな狭いキッチンがあった。コンロは壁際に設置されており、フライパンを載せることができるのか疑問が浮かんだ。通路の奥の部屋はスクエア型のワンルームが広がっている。テレビやタンスなど生活を彩るものがない。部屋の左側にはロフトに届く階段が備わっていた。階段の先を見ると薄暗いスペースに岡崎が描いたと思われる絵画が数枚壁に凭れ掛かっていた。一番手前の絵は大きな黒いハットを被った男性がやや斜めを向いているデザインだった。玄瀬は岡崎の自画像だと直感した。

「どれくらい住んでるんですか?」

「もう十年以上住んでるよ。玄瀬くんが高校生だったときもここにいたよ。二三年前に外装が新しく塗られたからちょっと新しく見えるかもしれないけどね」

 岡崎はユニットバスの洗面所の蛇口をひねり両手を水で洗い始めた。手洗い用洗剤を押すと紫色で立体的な泡が岡崎の手のひらに立ち上がった。よく医療の現場に使われるものらしい。かけてあるタオルは使わずに薄い灰色のペーパーナプキンを二枚取って水滴を拭き取った。

「玄瀬くんも同じ手順で洗ってくれる?」

「めっちゃ感染症対策されてるんですね」

「腕時計を触るときだけだよ」

 玄瀬はワンルームの中央にある横長で木目調のテーブル近くに座るよう促され、腰を下ろした。ロフトに登った岡崎は自画像の岡崎に凝視されているように見えた。油絵のタッチだが写実的な自画像なだけに不気味に映った。その瞬間、岡崎は振り返って黒瀬と目線がかち合った。

「何? 高級な腕時計もらえるからにやけてんの?」

「いや違いますよ」

 語気がじゃっかん鋭くなってしまい、本音のように聞こえたような気がしてもう一度否定の言葉を重ねた。本音の色合いはさらに濃くなったように響き、岡崎の笑みを見て反論を止めた。岡崎は数々の腕時計を載せた真っ赤なプレートの箱を両手で持ちながら、足の裏で段差を確かめながら慎重に降りてきた。

 テーブルに置かれたプレートには腕時計が縦四列、横五列と、幅が均等になるように並べられていた。バンドは金属がほとんどだが、革製もちらほら見受けられる。どの時計も金、銀、黒の三色のどれかであるが六割ほどは銀色だった。岡崎の好みの色なのかもしれない。時計盤の中に四つの円盤があるもの、対照的に極めてシンプルなデザインの時計など豊富なバリエーションだった。

「飲み物入れてくるから、どれがいいか選んどいていいよ。僕が今つけてるのは一番気に入ってるからダメだけど、そのプレートに置いてるのだったら何でもいいよ」

 玄瀬は陳列された時計に顔を近づけると、鼻息が時計盤に当たって白くくもった。汚れがつかないように顔を離し、くもりが消えると自分の間抜けな顔が時計盤のガラスに反射しているのが見える。こんな男が数百万円もする腕時計をはめて良いのだろうかと思わざるを得ない、愚かしい顔だった。岡崎の蘊蓄を聞き流していたとはいえ、時計に印字されたブランド名を口に出すと岡崎から聞いていたことを漠然と思い出せた気がした。岡崎から聞いて初めて知ったブランドも多かった。触れようとしたが、何か手袋をした方が良いかと思い、伸ばした手を膝に戻した。

「玄瀬くん、ここ、お茶置いとくよ。そのまま手で触れても良いけど、時計盤はデリケートだからあんまり触らないでね」

「ありがとうございます」

 岡崎はプレートから距離を取るようにコップをテーブルの端の方に置いた。玄瀬はまた腕時計に視線を戻した。

「どれもめっちゃ高いですよね。本当にいいんですか」

「玄瀬くんは生徒というより年の離れた大切な友達だからね。僕は友達が少ない、というより玄瀬くん以外いないから、玄瀬くんとずっと良好な関係でいられて嬉しいんだよ。その感謝のしるしとして受け取ってほしいんだ」

 玄瀬はむず痒さを覚えた。美奈穂をネットストーキングする自分の側面を理解していても仲良くしてくれる岡崎こそありがたい存在だった。

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