誘い
「動揺してるじゃん。そんなに好きなら彼女に会いに行ったらどうなの? 今東京に住んでるんだっけ?」
「何で知ってるんですか」
「適当だよ。そうか当たったんだ。東京のどこ?」
「四ツ谷らしいです。物理的にも心理的にも遠いところに行ってしまったように感じます」
「それは玄瀬くんがSNSストーカーばっかしてるだけでアクション起こさないからだろ? 今は年末年始なんだし、こっちに帰ってきてるんじゃない?」
「確かに、こっち帰ってきてますよ。さっきSNS見たら高校時代の友達と飲み会してる写真が上がってました」
「ほらね、僕のことなんかほっぽり出して明水さんのとこに行っておいでよ。あ、結果だけ教えてね」
「何で岡崎さんと会うたびにこういう流れになるんですか? できるわけないじゃないですか」
岡崎は体を揺らしながら笑った。
「僕の純愛を笑わないでください」
岡崎には美奈穂に対する思いを全て伝えていた。芸術肌で他の人が思い浮かばないような考えを持っていそうな岡崎に話せば何か復縁できる手段が見つかるかもしれないと期待したが、結局は自分の美奈穂に対する思いをからかわれているだけだった。
「ごめんごめん。じゃあお詫びにこのあと僕の家に来る? 気に入った腕時計があったら一本あげるよ」
「本当ですか? どれもめちゃくちゃ高いですよね」
「僕は目利きに留まる絵は描けないけど、時計の目利きはできるからね」
ちょうど玄瀬の注文した品がカウンターに置かれて、椅子から尻が離れるのを我慢して口に掻きこんだ。
店を出ると店内の空調に身体が慣れてしまっており、耳を切る寒さに全身の震えが止まらなかった。
「寒いね、早歩きで駅まで行こう」
岡崎は駅のある方向に指を差し、大股で歩き始めた。雪は降っていないものの路面が凍結しつつあり、前方から向かってくる中年の男が脚を滑らせていた。岡崎は男性には目もくれず歩き続けている。玄瀬より頭一つ身長が高い岡崎の大股はついていくことが大変だった。客入りが盛んな時間帯を過ぎた飲み屋から出てくる人をよく見かけ、玄瀬と岡崎と同じ方向に歩みを進めている人も何人かいた。それでも店内の席はほぼ埋まっており、明日の仕事の心配をしなくても良い開放感に溢れる笑顔を皆が皆浮かべていた。
改札前にはいくつかのグループがあって、それぞれのところから大きな笑い声を駅構内に響かせていた。岡崎はグループ間をすり抜けて改札を通り、岡崎の作った道をなぞるように玄瀬も続けて取った。
階段を降り始めたときに上り方面の各駅停車がホームに滑り込んできた。電車から出てきた人は階段に磁力があるのかと思うほどに全員が同じ速さで向かってき、左端に寄って降りた。人を吐き出した電車の座席にはたまに座っている程度であり、歯磨きをきれいにしたあとの口のなかはこんなものだろうかと玄瀬は妙な共通点を見つけた。アルコールが回って思考が変になっているのかもしれない。
岡崎と隣り合って座ると眠気が瞼を襲った。やはりアルコールが確実に身体に訊き始めている。
「寝ててもいいよ。十分くらいで着くけど」
「それくらいなら、寝たら余計にしんどくなりません」
「僕だったら起きてるな」
「じゃあ僕もそうします」
岡崎は脚を組み、鞄から眼鏡ケースを取り出した。黒い眼鏡吹きを手に取り、左手首にはめられたシルバーの腕時計の時計盤を優しく拭き始めた。手を離すと、指紋や埃が一つもない時計盤が電車の照明を反射していた。ブランド名はもう忘れてしまったが、二百万円はくだらないことを鮮明に記憶していた。
岡崎が降りるよう促したところは母校の最寄り駅だった。玄瀬は高校時代の三年間、ほぼ毎日利用していたなじみ深い場所だった。岡崎は改札を出ると母校のある西口とは逆の東口方面へと曲がってエスカレーターに向かった。
「岡崎先生の家って高校の近くだったんですね」
先に降りるとことを譲ってくれた岡崎が後ろにいるので振り返って言った。
「通勤に長時間使いたくないタイプなんだ。私立だし異動がないから助かったよ」
エスカレーターを降りると目の前には五階建ての商業施設があり、その脇には幅が狭く、赤いレンガで舗装された道があった。
「ここを直進すれば到着する」
等間隔に設置された街灯にはどれも蜘蛛の巣がこびりついていた。真冬だからか蜘蛛の姿は見えなかったが粘着質な糸に絡まって命を落とした羽虫が街灯の光に照らされていた。死体が晒されているように映った。
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