腕時計
初めてご飯に連れて行ってもらったときは気取りすぎだと思ったが、食事に行く回数を重ねるうちに取り繕った姿ではないことがわかった。本来なら煙たがるような仕草だが、玄瀬は動物園にいる珍獣の生態を観察するような興味深さを見出していた。
「やっぱりおいしい」
「それ、新しいやつですか」
岡崎の左腕には、今まで見たことのない腕時計がはめられていた。岡崎はすぐに腕時計に目をやり、外して玄瀬に渡した。
「いや、これは前から持ってるんだけど、玄瀬くんに見せるのは初めてかもしれない」
岡崎は左腕にはめた腕時計のことを語り出した。ヴァシュロン・コンスタンタンというブランドであるということ、世界で最も古いブランドの一つであるらしいことまでは頭に入ったがそれ以上の専門知識はアルコールで脳が痺れていることもありほとんど入ってこなかった。
「素晴らしい時計にはストーリーがあるんだよ」
「ストーリー?」
「ヒストリーと言ってもいい。ヴァシュロン・コンスタンは、ジャン・マルク・ヴァシュロンがスイスのジュネーヴに創業したんだ。のちにフランソワ・コンスタンタンの経営参画によってヴァシュロン・コンスタンタンが誕生している。彼は『最高品質のものをつくり、それを常に改良する』というコンセプトをもとに営業活動を続け、国際的な知名度へと発展していくんだ」
「へえ」
始まった、と玄瀬は思った。腕時計の話をするたびにその時計に関する蘊蓄が止まらなくなる。これまで岡崎から聞いた腕時計の話はほとんど忘れてしまったが、蘊蓄を話している間の岡崎は自分の話に酔いしれているので、玄瀬は気兼ねなく注文した品を食べられる。
「その後も技術者が入社してきて、精度と技術の高さは世界屈指になっていってスイス国内外で数多くの賞を受賞するんだ」
「本当に時計好きですね。いいなあ、莫大な遺産を手にして」
玄瀬は言った途端、喉が突っかかった。いくら親しいとはいえ、あまりにも無神経ではないかと思った。だが岡崎は唇が柔らかい弧を描いた涼し気な表情を崩すことはなかった。
「まあ父の唯一のいいとこだったよね」
高校時代から岡崎と岡崎の父が不仲で絶縁されているということは聞いていた。玄瀬が大学に入学してから初めて岡崎とご飯に連れて行ってもらったとき、岡崎は父親が急死したことを告げた。店員に注文するときと同じような抑揚の無さだった。
「父はねえ、トレーダーでけっこう資産家だったんだよね。でも僕が美大に行くことを言ったら、普通の大学行って就職しろって言うんだよね。自分が好きなことをしているくせにって反論したら絶縁されてね。母とも離婚して行方知らずだし、親戚づきあいとかもなかったからしばらく血のつながりを感じない人生を歩んでたんだけど、まさか父が死んで再会するとはね」
岡崎からは父の死がもたらす悲しみの類の表情は垣間見えず、聞いたことのない俳優が亡くなったネットニュースを閲覧するようなものだろうかと玄瀬は疑問を抱いたが、実際それに近かった。
「まあせっかく手に入れた資産だから自由に使わせてもらうよ」
それから岡崎と一緒にご飯を食べたとき、必ず奢ってくれた。年上だから当たり前かもしれないが、会計はいつも三万円を超えている。本当にお金に苦労しない人生になったのだと思い心底羨ましかったが、岡崎は美術教師を辞めようとしなかった。
「本当は嫌いな父のお金に頼らずに生きていきたいんだよ。だから生活資金とかはなるべく自分の給料から出すようにしてるんだ。むしろ一刻も早く嫌いな父のお金をなくしたいから高級時計とか高価なものを買うようにしてるよ」
岡崎は腕時計をちらつかせながら黙々と生ハムを食べている。
「そういえば、明水さんのことはまだ諦められないの? ストーカーしてるの?」
「ストーカーって言わないでくださいよ」
「だって毎日SNS訪問してるんでしょ? もう住所も知ってるんじゃないの?」
玄瀬は残り一列になった生ハムを一気に箸ですくって口に入れた。一枚は薄いがさすがに多くてうまく噛むことができない。ただ深い味わいが口の中に広がった。
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