美術教師・岡崎登

 マフラーを強めに巻き直すと隙間に冷気が入り込み、肌を凝縮させていった。店の中で待っておけばよかったと玄瀬は思うが、岡崎登おかざきのぼると待ち合わせするときはいつも店の前でないと落ち着かなかった。高校時代とはいえ、美術教師である岡崎より先に店に入るのは失礼だと考えていた。

 指を絡めた男女が白い息を掛け合いながら玄瀬の前を通り過ぎていった。彼らの背中に視線をぶつけていると他にも同じような男女が歩いている。十二月になったばかりだがスーパーマーケットに行けばクリスマスソングが流れ、行き交う人々もどこか浮足立っているように見える。誰もがクリスマスだと勘違いしていそうだった。その証拠に、隣の居酒屋の提灯にはサンタクロースがしがみついている。障子にデコレーションシールを貼っているような不相応さが漂っていた。

「お疲れ玄瀬くん」

 振り向くと岡崎が手を小さく振っていた。手袋をしていない手をさすりながら白い息で温めていた。岡崎の奥には青信号が点滅したとたん赤になり、数人が対岸まで早歩きで向かっていた。

 整えた髭にきれいな卵型の顔の輪郭、ウェーブのかかった髪は片耳だけかけられていた。黒と白の太めのストライプのジャケットのなかは黒一色のタートルネック、裾の広いズボンというアーティスティックな外見では高校教師と思えない。玄瀬は岡崎の奥にある窓に映った自分の姿を見ると、高校時代から変わっていない。全体を短くし頭頂部をワックスで立たせ、前髪は七対三の割合で左に流す髪型だった。

「寒いし入ろう」

 岡崎は地下へと続く階段に腕を伸ばした。一段ごとに足音が反響していく。靴の音が階段を転がって奥に見えているドアに吸収されていくような心地がした。

 岡崎が予約する店はどこも薄暗く、静謐さが常に保たれているような空間だった。まだ店内を見ていないが階段の趣からして今回も同じような店であることは確信した。こういうところで少人数と会話していると、アイデアが降ってくることがあるという。岡崎は現在も高校の美術教師をしながら画家として活動していた。

 玄瀬は何度か岡崎の描いた絵を見せてもらったが、感銘を受けるようなものはなかった。ただ玄瀬だけでなくいわゆる画廊の目にも止まったことはないらしい。

 豆電球のような暖色のライトが玄関の上に設置されていて、木目調のドアに温かみが宿っている。岡崎がドアノブを捻り中に入ると、玄関と同じようなオレンジのライトが、天井から規則的に数多く吊り下げられている。オレンジ色の雨を彷彿とさせた。岡崎は店内のテーブルが並べられた奥にあるカウンターに玄瀬を誘導すると、店員と軽く目配せをした。どうやら初めての店ではないらしい。

「ここは生ハムがめちゃくちゃうまいんだよ。ビールと合わせて食べると天に昇り詰めたような心地になる」

「それはさすがに言いすぎですよ」

「食べてみればわかる」

 岡崎はさっそくビールと生ハムを注文した。玄瀬はメニュー表を見てお腹を満たしそうなものを三品注文した。店の雰囲気とは合わない親子丼もメニューの中にあり、自分みたいにすきっ腹にアルコールを含んで潰れる人向けなのだろうかと玄瀬は考えた。岡崎は「それもおいしいよ」と言った。

 岡崎と会うのはお盆以来で四ヶ月ぶりだった。今回も会社が年末年始の休暇に入り、実家に帰ってきたタイミングで岡崎から連絡があり会うことになった。

 カウンター越しにビールを差し出されると岡崎は素早く二つとも受け取ってから玄瀬に渡した。

「じゃあ、再会の夜に、乾杯」

「キザすぎますし、たぶん言う相手間違ってますよ。いつもごちそうさまです」

「奢られる前提かよ」

「すみません。金ないもんで」

 オレンジ色の照明のせいで飲む前からお互いの顔に赤らんでいた。玄瀬と岡崎は口の端を持ち上げたあと、ビールに口をつけた。岡崎は玄瀬が飲める味を熟知しているようで、アルコールに強くない玄瀬でもすっきり飲みやすいのど越しだった。

「仕事は順調なの?」

「まあそれなりに……」

「順調そうじゃなさそうだけど」

 玄瀬が否定しかけたとき、岡崎との間のスペースに生ハムが載った器が置かれた。正方形の平たく白い皿に、丸く半分に折られた生ハムが肩を規則的にびっしりと並べられていた。ピンクがかっていて暖色の照明で鮮やかに輝いている。時おりスマートフォンで見てしまう、交通事故で引かれた人間がの肉が飛び散り内臓がむき出しになっている画像を思い出したが特に食欲に支障はない。グロテスクな画像は暇つぶしとして閲覧しており、ときおりスナック菓子を食べながら見ることもある。

 岡崎は玄瀬に食べるよう促しつつ、薄くスライスされた生ハムを箸で一気に五枚ほどすくって口へ運んでいた。目を閉じて深く息を吸い、長く吐き出していく。絶えず下あごを動かしており、嚙みながら舌で転がしているようであった。

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