人間時計

佐々井 サイジ

偏執病的片想い

 親指の爪が赤らんだ。スマートフォンを掴む力が強すぎたことに玄瀬浩輔は気づいた。力を抜くと薄いピンクが爪全体に広がり赤はどこかに沈んでいった。スマートフォンの画面から親指をのけると明水美奈穂のアカウントページが露わになった。


『Minaho』

『Wedding planner / love ▶ *Café Tour & Playing Golf*』


 去年の四月にウェディングプランナー、十月にゴルフがプロフィール文に追加された。それ以外は今日も変わっていない。絵文字を使用しない代わりに記号を用いて控えめな飾りつけをする文章は、高校時代に付き合っていた頃から変わらない。このSNSの向こうには今でも趣向の変わらない美奈穂がそこにいる。

 アイコンのチワワも高校時代から変わっていない。付き合っているときに『ゴラッソ』という名前のチワワを飼っていると聞いたことがあった。名前の意味を訊くと『すごいゴール』という意味だと美奈穂は言った。サッカー好きの父が名付けたらしい。美奈穂は可愛い名前が良かったらしいが、犬も『ゴラッソ』と呼ばれるとしっぽを振って来るほどしっくり来ていたようで諦めた、と校舎を出て駐輪場に向かう途中の道で聞いたことを覚えている。玄瀬は実際にその犬を見たことはないが、このアイコンはまずゴラッソで間違いないだろう。時おり投稿にも登場する犬と姿形が一致する。

 ゆっくりとスクロールするが美奈穂はまだ新しく投稿をしていない。用を足した直後に来る寒気に似たものが身体を震わせた。テーブルに置いてあるリモコンに手を伸ばし、暖房の設定温度を一度上げた。視線をスマートフォンに戻すついでに窓越しの景色に移すと、葉のついていない木の枝が奥のタワーマンションを邪魔している。マンションに黒い罅が入っているようだった。

 午後六時半を過ぎようとしているのに、空は群青で固まっており、黒へと移り変わる気配がない。雲の輪郭がはっきりと見える。それなりに勉強に力を入れて進学校や有名大学を卒業した経歴を手に入れたわりには、明るい夜の理由を説明できない。

 再度SNSを開くとゴラッソのアイコンが迎えてくれた。玄瀬は大きな息が漏れ出た。もう何百、何千回と見た過去の投稿に新たな回数を重ねていく。スマートフォンの性能に大きく頼った風景写真、原色が強い食べ物の写真、大学時代の友達との笑顔の写真。玄瀬と別れてから恋人の存在を匂わせるものは一つもなかった。新しく投稿された写真に恋人の存在がないことに安堵しつつ、美奈穂みたいな女性が二十四歳にもなって彼氏がいないわけがない、という猜疑心がどうしても拭えない。美奈穂のフォローする人物で有名人と自分を除いた男はすべて把握している。男たちは小学校から大学までの知り合いだった。この中の誰かが美奈穂の恋人なのかもしれない。いや、きっと違う。男女比のフォロワー比は三対七であり、健全な割合だと玄瀬は許容していた。復縁したとして男のフォロワーを全部はずせ、などと言えばすぐに美奈穂は自分の元を去ってしまうだろう。今のうちに男を相互フォローしていることに慣れておかなければならない、と別れた翌日から毎日唱え続けている。

 美奈穂とキスした日と別れを告げられた日を毎日毎日思い出す。今ならもっと美奈穂を幸せにすることができたのに。その後悔の上に、美奈穂が恋人だったらという妄想を積み重ねる。

 少しだけ立派なマンションに同棲し、見栄を張って八対二の割合で玄瀬は家賃を支払っている。風呂上がり、乾いたばかりで少し広がった髪を抱き寄せ、そのままセミダブルのベッドに押し倒す。「明日も仕事だよ」と美奈穂は言う口をキスで塞ぐ。電気を消してほしいという願いも頬を赤らめた美奈穂の願いを聞き入れず、耳、首筋、肩までキスしつつ、パジャマのボタンを片手で外していく。露わになった乳首へと到達するころには、美奈穂の抵抗はなくなり、二人とも明日の寝不足を覚悟して、目の前の快楽にたゆたいながら夜を過ごすのだ。

 美奈穂は今、俺と違う誰かに肩を抱き寄せられ、ブラウスを脱がされることに快楽を見出し、男を感じているのだろうか――

「美奈穂……」

 玄瀬は誕生日にプレゼントした薄いピンクのブラジャーとパンティーだけの姿になった美奈穂を抱きしめた。美奈穂は肌寒いのか、うっすらと腕に鳥肌ができている。軽く謝りベッドに連れて行って一緒に布団の中に入った。スウェットを膝までずり下げて下半身を握る。鼓動のように血液の流れが手のひらに伝わり、激しく上下させた。

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