23. 傷つけられた心に(※sideラウル)
観劇に出かけて以来、ティファナとはかなり頻繁に連絡をとるようになった。私も可能な限りオールディス邸に顔を出したし、彼女からはよく手紙や、外出の誘いなども来た。いまだにどうしても面倒に感じてしまう自分の心に強く鞭を打ち、すぐさま返事を書き、休日には馬車を出し迎えに行った。
しかしそんな私の心の中で、何故だかあのロージエの存在が日増しに大きくなっていった。気付けばいつも彼女のことを考えてしまっている。あのオドオドした落ち着きのない態度。執務室で叱られ、涙を浮かべながら必死に書類を捲る姿。助けを求めるように、頼りない顔で私を見上げてくる、彼女の視線。
(何故こんなに、あの子のことが気になっているんだ)
自分でも訳が分からなかった。あまりに出来の悪い部下の存在が心の負担になっているのだろうか。……いや、違う。そんな不快感ではない。ただ、ロージエを見ていると無性に胸がざわめき、落ち着かない気持ちになる。心拍数が上がり、どうしようもなく焦れてくるのだ。そこに不快な感情は、決してない。
これは、一体何だ?
(……どうでもいい。一時的なものだろう。少し彼女と親しくしすぎているのかもしれない。だからいつも怒鳴られてばかりいるあの子のことが放っておけなくなっているんだろう)
仕事の面でサポートしてやればいい。それ以外は、もう気にすることはない。
私は自分にそう言い聞かせた。
だが。
ティファナとの結婚式を数日後に控えた、ある日のこと。
私の心は一変した。
その日、私はロージエに付き合い残業して書類を捌いていた。例によってロージエが上官から任されていた書類を期日までに処理しきれず、盛大に怒られ泣いていたのだ。彼女の涙を見ると、そのまま放って帰ることなど、もう私にはできなくなっていた。
「……ほ、本当に、ありがとうございました、ヘイワード様」
「……いや。構わない」
いつもしおらしく、自信なさげな様子でオドオドと私に礼を言うロージエ。妙に可愛く見えてしまうのが怖くて、私は彼女から目を逸らしてぶっきらぼうにそう答えた。
「帰ろうか。これ以上遅くなると親御さんも心配する」
「っ! あ、あのっ、ヘイワード様……っ。お、お話ししたいことが、ございまして……っ」
「? ……どうした?」
何やら切羽詰まった表情で私を呼び止めるロージエが気になり、執務室を出ようとしていた私は足を止めた。……いや、この子が切羽詰まった表情をしているのは割といつものことだが。
ロージエは逡巡しながらも、小さな声でこう話しはじめた。
「……じ……、実は私……、先日、ヘイワード様のご婚約者様の、ティファナ様にお会いしたのです……」
「……ティファナに?」
予想もしていなかった言葉に驚き、私はまじまじとロージエの顔を見た。その表情はいつにも増して暗く、悲しげに見える。
「サ、サリアさんも一緒に参加したお茶会で、です……。ティファナ様が、サリアさんとご一緒に来られてて……、初めて私も、ご挨拶させていただきました。……そ、そしたら……っ」
「……。どうした? ブライト君。何かあったのか?」
黙り込んで俯いてしまったロージエに声をかけると、彼女の肩が小刻みに震え出した。
「……泣いているのか? 何か、粗相をしてしまったのか? 彼女のことなら……、」
「ちっ、違うんです……! 違うんです、ヘイワード様っ……!」
ティファナに対しロージエが何か粗相をしてしまって落ち込んでいるのかと思い込んだが、パッと顔を上げた彼女の言葉を聞いて、私は愕然とした。涙に濡れるその顔で、ロージエは必死で私に訴えたのだ。
「や、やはりティファナ様は……、サリアさんが言っていた通りの方だったんです……! 挨拶する私を上から下まで恐ろしい目つきで睨むと、言ったんです。下々の者が、気安くこの私に声をかけてこないでって」
「……何だって?」
「わ、私、怖くて、体が固まって、動けなくなって……。そ、そしたら、ティファナ様、私やサリアさんのことを、格下の、取るに足らない人間だって……。女は家の格が全て、私は美貌も、格も、賢さも全てを持っているし、王太子の婚約者候補だった人間なのよ、って……あなたのような、何も持たない格下の小娘に声をかけられただけで不愉快でならないって……、そう仰って……」
「……ティファナが……、君にそんなことを……?」
驚いてそんな言葉しか出てこなかった。まさか。あのティファナが。常に穏やかで優しく、気品ある振る舞いを崩さない彼女が、……このロージエに、そんなひどいことを……?
サリアがティファナを悪く言っていたと聞かされた時にはまるっきり相手にもしなかったが、このロージエが言う言葉は、素直に信じられた。
この子は私に嘘などつかない。そんな子ではないからだ。
「わ、私のことなど……、構わないのです。どう悪く言われても。だって本当のことですから。私のような、鈍臭くて、美しくもない貧しい男爵家の娘が、あ、あのようなきらめく美貌をお持ちの侯爵令嬢様にお声をかけたこと自体が不敬だったのです……。だけど……っ! どうしても、許せないと思ってしまうことが……っ、」
震える声でそう言うと、ロージエは大きくしゃくり上げ、涙をボロボロと零しながら言った。
「ヘ、ヘイワード様のことを……っ、悪く仰ったのです……! 私がヘイワード様と同じ職場だと、ティファナ様はご存知ないから、気を抜いておられたのだと思います……。私は本当なら、王家に嫁ぐはずだった女なのに、文官ごときと結婚する羽目になってしまった、って……そう仰って……」
「……っ、な……、」
「広大な領土を持つ公爵家の令息だからまだマシだけど、それでもこの私には不釣り合いだし、たまらなく嫌いだって……。せめて一生贅沢させてもらわなきゃ、割に合わないって……。あ、あまりにも、ひどすぎます……っ! ヘイワード様は、こんなにも素敵な方なのに……! お優しくて、格好良くて、誰よりも素敵な方なのに……っ!! ひっく……」
「……っ、」
頭を鈍器で殴りつけられたような衝撃だった。あのティファナが……。自分より下位の貴族令嬢たちの前ではそんな傲慢な態度をとり、そんなことを言いふらしているとは……。
そう言えば、以前にティファナから仕事のことを尋ねられた時、ティファナは我がヘイワード公爵領の経営が順風満帆なのは父や私の手腕が素晴らしいからだとやたら褒めていたな。
あの時……、
『はは。まぁ、私などはまだまだ勉強中の身だ。これから父に学ばなくてはならないことはまだ山のようにあるよ。でも、嫁いできてくれる君に金銭面で苦労をかけることはきっとないだろう。その点は安心しておいてくれ』
私のこの言葉を聞いたティファナは、この上なく嬉しそうな顔で笑っていた。
(……そういうことだったのか……)
あの満面の笑みの意味を理解し、私の胸の内にどす黒い靄が立ち込める。ティファナへの嫌悪と憎しみの靄は瞬く間に私の心を覆い尽くし、もはや彼女の顔が脳裏をよぎるだけで不快だった。
(すっかり騙された。やはり第一印象というのは大事だ。私が彼女をどうも好きになれなかったのも、おそらく本能的にあいつの本性を嗅ぎ取っていたからなのだろう)
心を開いて、裏切られた。その衝撃と惨めさ、自分自身の情けなさに、私は深く傷付いた。
その時だった。
ロージエが私の両手を、その細い手でしっかりと握りしめてきたのだ。
「っ!? ……ブライト君……」
「ヘイワード様! い、一度だけ……、どうか今夜だけ、私の胸の内をあなた様に打ち明けることをお許しくださいませ……っ! わ、私は、ヘイワード様のことを、心からお慕い申し上げております……っ! だって、ヘイワード様は……、いつも私を気遣ってくださって、ご自分だって、すごくお忙しいのに、そんな中で、いつも……こんな私を助けてくださって……。頭が良くて、格好良くて、落ち着いてて大人で、と、とにかく素敵で……っ! だから、幸せになってほしいんです……っ! ヘイワード様のことを心から愛している方と……幸せになってほしいのにぃ……っ! ふぇ……っ、」
「……っ、……ブライト君……」
二人きりの執務室の中。
私の手を必死に握りしめながら、私のことを気遣い、精一杯慰めようとしてくれるロージエ。
いつも頼りなく、自信なさげにオドオドしている彼女が、今私を見上げながら次々と涙を流し、私のことを好きだと伝えてくれている。
こんなにもひたむきに。
プライドをズタズタに傷付けられた、その私の心の中に、ロージエの誠意が染み込んでくる。胸が震え、吐息が震える。
湧き上がる衝動に必死に抗っていたその時、ロージエが言った。
「わ、私じゃダメですか? ヘイワード様……っ! 私が、あなた様を幸せにします……っ! 何も持ってないけど……、ティファナ様に比べたら、取るに足らない、虫けらのような女だけど……。私なら、あなた様を一生、心から愛し抜きます! だってこんなに大好きなんだもん! 優しいあなたのことを、こんなにも好きになってしまったんだもん! あ、あなたが、例え公爵家のご子息じゃなくても、頭が良くなくても、格好良くなくても、平民でも何でも……。あなたなら、何でもいい。大好きなんです、……ラ……、ラウル様……っ!」
「──────っ!」
全身全霊で訴えかけてくるロージエのその健気な姿に、私の中で何かが弾けた。
「っ!! きゃ……っ、」
私は強く抱き寄せたロージエの唇を乱暴に奪うと、その場に彼女を押し倒した。
◇ ◇ ◇
「……すまなかった……。こんなところで、君を……」
「……いいえ。謝らないでください、ラウル様。私は幸せです。あなた様に、一夜だけでもこうして思い出をいただきました。この思い出だけを抱えて、これからずっと、一人で生きていきますから……」
「馬鹿なことを。一人になどしない、ロージエ。待っていてくれ。いつか必ず、君を──────」
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