第15話
座っていた椅子から立ち上がって、手を上げて前面を伸ばすようにストレッチをする。同じ態勢をとっていると身体が強張るから、座った状態から立ったりする時には毎回必ず行っている。クラスにはそんな私を、変な目で見ているやつも少なからずいる。基本的には無視をしているけど。
「いちこ。私そろそろ帰るよ。いちこも少し横になってなよ。あ、美術室の鍵を閉めないといけないのだったら、私が代わりに閉めとくから。鍵持ってる?」
いちこは少し驚いた様子を浮かべていた。
「ななちゃんもう帰るの?」
「うん。だって、もうすぐいちこの親だって来るだろ。余計な心配はかけたくないから、それに、今のいちこじゃ美術室の戸締りできないだろ。いちこのことだから顧問にも言えないだろうから、代わりに私が閉めてくるよ。私だって一応は美術部員だからな」
みんなより少し髪の色が明るい私を見た大人の第一反応はみんな同じだ。不良、不良。そんなレッテルを貼られ続けたから、今更誰に何と思われようとも何とも思わない。でも、いちこが私のせいで親にあれこれ言われるのは耐えられない。
大義名分を掲げていればいちこは諦めるだろう。私だってまだまだいちこと話をしていたいよ。でも、それ以上に大人に会いたくないんだ。そこだけは分かってくれ。
「そんなことないよ。お母さんがななちゃんに悪いこと言ったら、私がちゃんとお母さんを怒るから。もう少し一緒にいて」
今までこんなことを感じたことはなかった。何でだろうか、鼓動が早くなって胸が苦しかった。締め付けられてはいない。高鳴ってうるさくて、それが苦しくて。変な気持ちだ。
そうか、私は人の温もりというやつに飢えていたのか。ずっと1人だったから。「一緒にいて」の言葉が初めてだったから。
「そう言ってもらえるのは嬉しいけど、私だって帰る時間を遅くしたくないからね」
「あ、そうだよね……ななちゃんは自転車だから、帰る時間が遅くなったら困るよね。わがまま言ってごめん……」
謝らないといけないのは私の方だ。本当はいちこが言っている通り、いちこの親と顔を合わせたくないだけだ。
「謝らなくてもいいよ。また今度たっぷり話でもしようよ」
「うん!」
と、いい流れで別れを言えそうだったのに、保健室の扉がガラガラと開いて登場したのは、あの男だった。あからさまに右膝から1滴の血を流していて、転んで擦りむいた様子だった。身体のどこを押さえるもなく、足も引き摺ってはいなかった。
最悪のタイミングだ。何でこんな時に保健室にくるかな。
「あれ、先生いないの?」
「職員会議だってよ。何かしてほしいのだったらまずは職員室に行ってきな」
振られた相手が目の前にいるからオドオドした態度になるのは分かるけど、「そうなんだ」だけ言って立って待つなよ。せっかくいちこと2人きりなんだからさっさとどっかに行ってくれ。
「ななちゃんこっち来て」
いちこは私に手招きしていた。いちこの隣の椅子の座っても、まだ手招きをしていた。
聞こえないくらい小声で話をしたというわけか。
あの男には背を向けた状態で、いちこの顔に耳を近づける。
「1発殴ってこようか」
「そんな物騒なこと考えていない。もう、そんなこと絶対にしないでよ」
「はいはい。それで」
「聞き流さないで。それでね、先生も職員会議だし、ななちゃんが手当してあげたら」
今度は私の恋を応援するって。そんなつもりなのだろうないちこは。余計なお世話。ありがた迷惑もいいところだ。
と言うか、そもそも私に恋愛感情がないから、応援は成立しないのでは。私ではなくて、あの男の恋愛を応援しているのか。私はそんなふうに恩を返すように育てた覚えはないぞ。
まあ、返されるほどのことは何もしていないけど。
「塩を塗ってもいいなら」
「それだけは絶対にダメだから!」
小声で話すために近づいたのに、そんな大声を出したらあの男に聞こえてしまう。それ以上に耳を近づけている人に向かって出す声の大きさではなかった。耳の中でキーンと高い音が響いている。
「塩以外だったらいいんだな」
「塩以外もダメだから」
「何も塗ってはいけないのだったら、消毒液も塗ってはいけないのか?」
「もう。屁理屈はいいから、行ってきて」
「はいはい。1発殴ってきますよ」
「こら、ちゃんと手当してきて」
後ろ向きにいちこには手を振ったけど、さてどうしようか。本当に塩を持ってあるのなら、あの傷口に塗ってやりたい。流石に常時塩を持っている奴なんていないだろうから、代用できるもの……消毒液なら、本当にただの手当てになる。私の鞄にも碌なものは入っていない。保健室の備品を漁っている暇もない。まずは時間稼ぎか。
「おい、お前。その膝洗ったのか?」
「え? い、いや、洗ってないけど……」
「傷口ができたらまず洗え。汚い足を触らせるな」
「あ、う、は、はい……」
よしこれで備品を確認する時間ができたな。
何だろうか、背後からすごく視線を感じる。背後にいるのはいちこだ。もしかして何か怒っている?
顔だけをいちこの方に向けると、いちこは眉間に皺を寄せて、冷ややかな視線を私に向けていた。口をパクパクとさせて私に何かを訴えかけていた。
お、お、う、お、う、ん。
初めから何となく想像はついていたけど、いちこを降ったあの男を私は名前で呼ぶ価値はないと思う。でも、いちこが目の前にいるから、言わないといちこにまた怒られてしまうな。やれやれ、いちこは本当に面倒な人だ。振られた相手のことなんて気にしなくてもいいのに。本当にお人好しだ。
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