第10話
いちこに「彼のことを教えて欲しい」と尋ねたが、いちこは顎に手を当て悩んでいた。キャンバスを見つめ、険しい顔をしていた。
私は雰囲気的なニュアンスで訊いたのだが、いちこは絵を描いているせいか、輪郭や目の形、顔のバランスなど、言われてもパッと頭に浮かばないようなことでしか言わない。今もきっと、顔のパーツの位置を思い出しているんだ。
この手の質問にいちこの返事はいつも遅い。
「これが例の彼か」
考えているいちこに話しかけたから、いちこは私の方に視線を向ける。そして、すぐに逸らした。
「ち、違いますよ……」
目を逸らしておいて嘘じゃないとはよく言ったものだ。そう言う嘘がつけないところとか、本当にかわいいよ。
「せめて嘘をつくのだったら、目くらいは見て欲しいものだよ。目を逸らした時点で、嘘をついていると言っているものじゃんか」
いちこは私に背を向けて、キャンバスの絵に目を向ける。背中を丸めて、背後からでも口を膨らませているのが分かるようなふくみ声で言う。
「だって彼を描いたら、今度こそ絵が完成しそうだったらから……」
墓穴を掘ってしまったかも。知っていたけど、いちこの口からは聞きたくなかったな。
だめだだめだ。いちこの前では平常心でいないと。
「なるほど。それで追っかけしてるんだ」
「追っかけてない!」
これほどのことをしておきながら追っかけてはないとは、救いようがないな。親友よ。それまもう恋だよ。
認めたくないけど、認めるしかない。
「はいはい。見ているだけね。それもそれで、まあ、グレーゾーンな気がするけど」
「意図的に見ているわけじゃないもん。私の正面にいるから、勝手に視界に入ってくるんだよ」
ああ、やっぱり。昨日のいちこがバスの中で見つめていたのは、例の彼だったか。そんな気はしていたから、ある程度の心構えはできていたけど、実際、本人の口から聞かされたら、堪えるな。
こんな時の対処法を私は知らない。だから、いつものように茶化す。
「それでも絵を描けるくらいには見ているんでしょ。いちこやばいよ」
こんなことしか言えない自分がむかつく。
私がもっと早く、いちこに思いを伝えていれば、少しでも違っていたのかな。
悔やんでも仕方ないけど、一歩踏み出せなかった自分が恨めしい。でもいちこに幻滅もされたくないんだ。
好きだけど、告白したいけど、今の関係を崩したくなくて、踏み出しすことを諦めている人は多いだろう。私もそうだが、幻滅されて、友達じゃなくなることの方がリスクが大きいのだ。親友と言っても所詮は赤の他人。縁を切ろうと思えばいつだって簡単に切ることができる。それが何よりも怖い。
いちこもそうだけど、私だってここまで仲良くしているのいちこくらいだ。だから、いちこが友達でなくなったら、私はまた孤立することになる。1人になるのがそこまで怖いわけではない。何なら16年生きてきて、1人の時間の方が多いから、1人は慣れっこだ。
私の両親は元から共働きで、帰ってくるのどっちも遅くて、小学生の時に離婚して以来、母親の帰りはもっと遅くなって、初めは寂しかった。まだ母親は帰ってこないのかなって思っていた。いつからか、1人が当たり前すぎて学校でも買い物も、誰かといることはなかった。
そんな私に声をかけてくれたのがいちこだった。初めは廃部になりかけていた美術部再建のために部員を集めていると言って、どこの部活にも入っていない私に声をかけていた。私はそんないちこを最初は無視していた。だって部活なんてお金がかかるし、時間がもったいないし、人と馴れ合わないといけないから、面倒なだけだ。
当時の私は中学1年生ながら、悪い噂が蔓延していた。夜遊びをしているとか、何十人も彼氏がいるとか。だから私に近づく人はいなかった。当時のいちこもそれは理解していたはずだ。そんなことを気にせず、いちこは私に話しかけていた。
私がトイレに入ろうとした時、いちこのクラスメイトだった、中村だったか、そいつがいちこに「あんなやつ部活に入れたら廃部待ったなしだよ」って言っていたのを聞いた。どこかで陰口を言われているのは分かっていたけど、実際耳にするとしんどいものだ。
言い返すこともできなかった私は、その場から立ち去ろうとした。でも、いちこは違った。
「そんなことないよ。水浦さん、小学生の時に男子に鉛筆取られて困っていたら取り返してくれたんだよ。私も他人のこと言えないけど、本当はみんなと話したいんじゃないかな」
もしこれが映画やドラマの世界だったなら、私が涙して立ち去って、流れで美術部に入って、仲良くなってなのだろうけど、私は、あの子の鉛筆を男子から取り戻した記憶がない。と言うか、取り戻したってことは、私は彼女と同じクラスだったのか。小学生の知り合いは数多くいるけど、彼女のことは知らない。いや、本当に覚えていない。流石の私でも、そんなエピソードがあれば覚えていると思うけど、全く覚えていない。男子と喧嘩をした記憶はそこそこある。その中で鉛筆を取り戻した。そんなことを私がするとは思えない。当時は意味もなく喧嘩をしていた。目的を持って喧嘩をした記憶もない。
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