第6話

 ところで、あの老婆。彼と話しすぎてはいないか。本を真剣に読んでいた彼を遮って話をするのは100歩譲っていいとしよう。でも、制限時間を設けないと、彼が読書に勤しめないではないか。彼の邪魔をしないでほしい。

 彼への助け舟を出したいけど、今の私には出すことができない。今回ばかりは無知な私を呪うしかないな。

 ごめん。

 口で言えないら、心の中で謝っておく。謝る義理ではないかもしれないけど、謝らないと私の気が収まらない。

 でも、彼にガツガツ話しかける老婆のおかげで、新しく彼のことを知れた。

 彼は文学作品が好きで、よく読んでいると言うこと。今は理由があって部活を休んでいること。

 理由までは語ってくれなかったけど、絶対部活で何かあったには違いない。そうでないと、バスに初めて乗ったときのような、あんな寂しい顔は浮かべられない。

 もしも話しかけたのが老婆ではなく、私だったら、歳も近しい彼の悩みの1つでも聞けたかも知れない。私が彼の支えになれたかも知れない。彼ともっと親睦を深められたのかも知れない。でも、それはできない。まだ、私の中であのことの整理がついていない。いつまでも引きずって前に進もうとしないのはダメだと分かっているけど、そう簡単に傷は癒えないし、忘れられるものではない。

 今日も彼には話しかけられずに彼はバスから降りた。心の中で手を振りながら彼がバスから降りるのを見守った。

 彼がいなくなって、寂しさを表し始めたバスの車内。私は1つの悩みごとを抱えていた。

 私が降りるバス停まではあと3つ。時間に換算すれば、4、5分。イヤホンをつけようか悩む時間だ。聴ける曲は最大2曲。曲によっては1曲。平均すれば、1曲と少しだろうな。それだけのために鞄からイヤホンを取り出して耳につける動作の方が面倒だな。たまには景色を見るのもいいのかもしれない。

 たったの4、5分であっても、何もなければ暇だった。イヤホンをつければよかったと後悔した。毎度馴染みな景色を見て時間なんて潰せるわけなかったんだ。初めから。何でもっと早く気が付かないかな。

 私はいつもこうだ。悩んだ末にめんどくさくなって、諦め、後悔する。同じことを何度繰り返しても学習しない。性のようなものだから、簡単には治せない。

 きっとこのままだとまた後悔する。それも分かっているけど、踏み出せる勇気がない。もうあんなことになりたくないから。ななちゃんともずっと仲良くいたいから。

 

 週が明けた月曜日。私は今日も変わらず、バスの乗り込む。いつものように彼の姿を確認しようと目を向けると、今日は、いつもの場所に彼の姿がなかった。バス全体を見渡しても彼の姿はなかった。他のメンバーは誰1人として変わらない。彼がバスに乗ってくる前と同じだった。

 また、つまらない毎日が始まった。

 だから私は思っていたんだ。声をかけないと、いずれ彼はこのバスからいなくなると。それなのに過去のことを引きずって、臆病になって、また後悔して。本当何度同じことを繰り返せばいい加減気がつくのだ。このままではダメだということに。

 彼はもうバスに乗ってくることはないのだろう。今までそうだったのだから、もう、2度と会うことはできないのだろう。

 

「いちこ、どうした? 今日は一段と元気がないな」

 

 朝から元気がないのがバレていて、バイトを休んでまで私の部活にななちゃんが付き合ってくれた、ななちゃん。

 ななちゃんは本当に優しい。こんな私のために、バイトまで休んでくれるとは。また改めてお礼をしないと。

 

「だって、彼の絵が描けなくなったから……」

 

 落ち込む私を見て、ななちゃんは愕然としていた。

 ななちゃんはきっと何か勘違いをしている。

 

「絵描いていること本人に話したの?」

 

 そんなことだろうと思った。ななちゃんはいつもこうだから。

 

「話しかけたわけないじゃん。私に話しかける勇気があると思う?」

 

 ななちゃんは顎に手を当て、視線を上に向ける。そして、私に視線を合わせてこう言った。

 

「じゃあ、逆に何をしたの?」

 

「何もしてないよ! 彼が昨日、バスに乗っていなかっただけだよ」

 

「いちこがストーカーしていることに気がついて?」

 

「ち、違うと……思う……よ……多分……」

 

 彼の制服を記憶して調べたり、降りるバス停を見ていたり、絶対にとは言い切れないことをしてきたのは事実だ。

 でも多分彼は私が見ていることにあまり気がついていないと思う。まあ、2回も目が合ったことはあるけど、1回目はすぐに逸らしたし、2回目だって、私を見ていたとは限らないし。たまたま目が合っただけとしか考えてないと思う。

 それよりも彼は本に集中しているから。

 

「何だか彼が可哀想になってきたよ。いちこに毎日にように見られて、プレッシャーを感じていたんじゃないの?」

 

「そんなことはないよ。多分……だって私以外にも傲慢そうなおばさんが話しかけていたから、あっちの方が酷かったよ。私だけのせいではないよ。多分……」

 

 そうだと思いたい。

 だって、考えれば考えるほど、私が悪いという答えにしか辿りつかないから。

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