第11話
春になりジャナを連れてルオポロ王国へ入国したマリエラは、無事、イエル・ドルチェとしてルオポロ王立学園へ入学した。
初めて迎えた寮の朝、顔を洗ったら自分でタオルを用意しないと顔を拭けないことに驚いたことから始まり、カトラリーなしの食事も受け入れ、友達ができたことで自分は思っていたより明るい性格だったと気づけたりと、次第に公爵令嬢時代からは考えられない生活にも慣れていく。学園の授業はかつての王妃教育で習得済みの内容が多いのだが、田舎出身の男爵令嬢が高成績では不自然で目立つからと、しばらくは中の下ほどの成績に調整して様子を見る。フィオレの引き立て役になるためにごまかしていた過去を思えば簡単だった。
順調に始まったように見えたイエル・ドルチェとしての人生。転機はすぐに訪れた。
学園の1学期の終わり、イエルはヴィルガ王立学園への短期留学生に選ばれてしまったのだ。マリエラが本来入学する予定だったヴィルガ王立学園へ、何の因果か、イエル・ドルチェとして留学する。
ルオポロ王国の学園でできたばかりの友達と離れ離れになってしまうことが悲しいが、問題はそれだけではない。ヴィルガ王立学園にはフィオレやレオポルド、アルフレードやニコラスなどマリエラと知り合いの生徒がいる。長年かけていたメガネを外し、髪と瞳の色を変え、13歳で領地に行ってから2年以上会っていないとはいえ、イエルがマリエラだと気づかれてしまう可能性がある。
留学は嫌だと断っても費用などかからないし名誉なことをなぜと、拒否することも叶わず、選出の理由すら説明してもらえない。マリエラではなくなったからといって、強い権力からの災害のような理不尽がなくなることなどなく、むしろ公爵令嬢マリエラより男爵令嬢イエルの人生で被る理不尽の方が多いのは当たり前だと思い直す。
マリエラからイエルになった時点、ルオポロ王国へ逃げ出した時点で物語のハッピーエンドを迎えたような気持ちになっていた浅はかな自分をマリエラは反省した。
伯父の力で留学しないで済むようにすることも考えたが、自ら男爵令嬢になったのだからもう公爵家の力は使えない。4ヶ月の留学くらい自分一人で乗り越えようと、覚悟を決めて大人しく留学することにした。
夏休み明け2学期が始まると同時、マリエラは半年前に出国したばかりのヴィルガ王国へ舞い戻り、イエルとしてヴィルガ王立学園へ足を踏み入れた。ルオポロ王国へ置いて出たはずのジャナが、髪色と瞳の色を茶色に変えてヴィルガ王立学園の寮にいた時には笑ってしまった。どう考えてもマリエラを心配した伯父の仕業だ。
留学して早々に沢山の令息から遊び相手として声を掛けられたマリエラは、なぜイエルが留学生に選ばれたのかを知る。男爵令嬢の短期留学生は後腐れなく遊ぶのに丁度いいと考えて声をかけてくる、そんな最低な令息たち。その中でも1番最低なのは、自身の婚約者、レオポルドで間違いない。
留学してから10日ほどたった放課後、市井へ遊びに行かないかと誘ってきた同じクラスの令息を躱し、ジャナの待つ寮へ帰ろうと回廊を歩いていたイエルは、逆方向からこっちへ向かって歩いてきた令息から話しかけられた。
「君、どこかで会ったことない?」と聞いてきたのは、少し垂れた目尻を細めて笑う王太子レオポルド。
一瞬、マリエラだと気づかれたのかとヒヤリとしたのだが、男性からのこういった態度には覚えがある。この10日で経験した貴族令息からのどこか傲慢な誘い文句ではなく、ルオポロ王国の市井で経験した平民男性からの軽薄な誘い文句と同じなのだ。
この王国で最も尊い王太子が、どうして平民のナンパを知っているのだろうか。レオポルドの後ろに控えている従者カルリノが、呆れたような冷たい目でレオポルドを見ていることからも、レオポルドはマリエラだと分かって声をかけてきたのではないと判断して良さそうだ。
ただ、カルリノは分からない。彼はたしか今年で40歳。マリエラとレオポルドが婚約し、初顔合わせの日には後ろに控えていたカルリノ。その1年前に亡くなっているとはいえ、王城勤めで王子の従者の彼がカファロ公爵夫人のマリエラの母の顔を見たことがないなどありえるのだろうか。
今レオポルドを見ているカルリノの冷たい目は、レオポルドがイエルの正体に気付いていないことに呆れているのか、それとも、平民のナンパのようにイエルへ声をかけたことに呆れているのか。どちらにしてもカルリノがマリエラの母とイエルの顔が瓜二つだと気付かない、もしくは、気付いてもレオポルドに言わずに黙ってくれるように祈るしかない。
「あたしは2学期だけ留学してるルオポロ人なので、会ったことはないと思いますよ」と、マリエラの声だとバレないように舌ったらずで鼻にかかったような声に変えて返事をする。王太子だと気付いていない体裁ですぐに立ち去ろうとしたのだが、レオポルドは早々に王太子の身分を明かし、軽薄な態度で馴れ馴れしく話しかけながらもイエルが逃げれない雰囲気を作ってきた。
領地へ届くフィオレからの手紙の中のレオポルドとの違いに、マリエラは内心で混乱してしまう。
レオポルドはフィオレとの将来を見据え、仲睦まじく過ごし、フィオレと思い合っているのではなかったのか。マリエラに対しては白けた態度だったレオポルドも、フィオレに対しては優しく誠実なのだと安心していたというのに。
今目の前にいるレオポルドはマリエラだけではなく、フィオレに対しても、イエルに対しても、とても不誠実な、最低な浮気男にしか見えない。
恐れ多いとやんわりとだが確かに拒絶しているイエルの言い回しに気づかないふりをし、留学生に王子として校内を案内するだけだと言って己より身分の低いイエルの腕を掴み、その強引さと貴族の男女としてはあり得ない距離感をカルリノから注意されてもイエルの腕を離さないレオポルド。
マリエラはそのままレオポルドに腕を取られて、半ば引きずられるように校舎を巡った。
周囲の生徒から好奇の目で見られているのに気付いたマリエラは、そういえばマリエラが10歳でレオポルドが11歳の時、地方の貴族から王城に珍しい愛玩動物としてクオッカワラビーが献上されたことがあったと思い出す。クオッカワラビーへ紐をつけ、嬉々として王城内を連れ回していたレオポルドの満面の笑みを、マリエラは離れたところから見ていた。
そのクオッカワラビーと同じように、珍しくて可愛いとイエルを連れ回し、満面の笑みを浮かべている。そんなイエルが己の婚約者マリエラだとは微塵も気づいていないようだ。
しばらくして、レオポルドは中庭の長椅子で自分の隣にイエルを座らせ、ルオポロ王国について聞かせてほしいと言いながら、イエルの個人的なことについて聞いてきた。
「レオ様、私以外の令嬢と同じ長椅子に座るなんて、妬いてしまいます」
イエルとしての設定をちゃんと考えていなかったマリエラがどう返事をしようかと困っていた時、レオポルドが留学生を連れ回しているとでも誰かに報告されたのだろう、フィオレが中庭に乗り込んできて話しかけてきたのだ。
「イエル嬢はルオポロ王国からの留学生なんだ。友人としてルオポロ王国の話を聞いてるだけで、婚約者に対してやましいことなんて何もないよ」
健気なフィオレに対して、悪びれない態度で追い払うように言い放ったレオポルド。これは、正式には婚約者ではないフィオレがレオポルドを注意する権利がないのをことをいいことに、口出しするなと言ったに等しい。
なるべく顔を見られないようにと下を向き俯いていたマリエラだが、フィオレがレオポルドの言葉に傷付いていないか心配になり、思わず顔を上げてしまった。悲しそうな顔でレオポルドを見つめていたフィオレも、こちらへ顔を向けてきた。
真っ直ぐでサラサラと流れる美しい黒髪に、形が良い切れ長の青い瞳で、一点のシミもない白い肌。会えなかった2年で透き通るような美少女へ成長していたフィオレ。留学してきてから10日、その成長を遠くから眺めることしかできなかったマリエラは、至近距離でフィオレと見つめ合った。
半分とはいえ二人は血の繋がった姉妹。マリエラへ興味がなかったレオポルドとは違い、さすがにフィオレはイエルの正体がマリエラだと見抜いてしまうのではと内心焦るが、フィオレはマリエラからフイっと目線を外してしまった。もしかしたら表情に出さないようにしているだけかもしれないが、フィオレはイエルの正体に気付いていないようだ。
そういえば、フィオレと出会った7歳の時マリエラはすでに分厚いレンズのメガネをかけていたと思い出す。分厚いせいで目が極端に小さく見えるあのメガネは、驚くほど顔の印象を変えてしまうのだ。
嫁いできてすぐにカファロ公爵家の屋敷内から母の写真や肖像画を全て撤去した義母のおかげもあるだろう。自分の部屋に母の写真を飾ることすら許されなかった当時は怒りしか感じていなかったが、そのおかげでイエルの顔がマリエラの母にそっくりだとフィオレに気づかれなかったことに感謝してしまう。
フィオレが立ち去る直前、レオポルドが「学園では自由を楽しめばいいって、そう言ったのはフィオレじゃないか」と小声で呟いていたのをマリエラは聞き逃さなかった。
それは、どう考えても"正式にはまだ婚約者ではないフィオレと"という意味。マリエラだってわかるのに、優秀なレオポルドがわからないはずがない。相手を指定しなかっただけの同伴の言葉を、二人の関係の前提を無視して、他の令嬢と遊ぶための言質として利用しているレオポルドの下劣さに、マリエラは気を抜けばすぐに顔をしかめてしまいそうで、必死に怒りが顔に出ないように努めている。
婚約者どころか、次に婚約する予定の令嬢までいるにも関わらず、平民のナンパのように男爵令嬢に話しかけ、腕を掴み、体を寄り添わせて隣に座り、髪を触り、愛称の”レオ”と呼べと言い、勝手に名前を呼ぶ。しかも、従者のカルリノに注意されても反省などせず、これだけの行為をした令嬢をただの友人と言い張る。これがマリエラの初恋の王子様の成れの果て。
両親からの愛を知らずに、幼い頃から王妃になるために過剰な努力をしてきた異母妹フィオレの幸せを、マリエラは願っていた。そのためにレオポルドが誠実にフィオレを愛してくれることを祈っていた。そんなマリエラの思いを裏切るレオポルド。
こんな誠実さのかけらもないレオポルドと結婚して、フィオレは本当に幸せになれるのだろうか。
レオポルドが立太子したのはマリエラと婚約し、ルオポロ王国から安定して魔石を購入するため。レオポルドは優秀だが、優秀だから王太子に選ばれたわけではない。第二王子のアルフレードだって王族として正しく優秀だ。
アルフレードとイエルは同じクラスだが、アルフレードがレオポルドのようにイエルへ話しかけてくることはない。むしろ放課後に出かけないかとしつこく誘ってきたり、勝手に体に触ったりしてくる同じクラスの令息達へ行動を改めろと注意してくれる。
かつての王妃教育でヴィルガ王国内の貴族を把握しているマリエラは、留学してきてから連日声をかけてくる令息達のほとんどが婚約者持ちだと知っている。そのせいで、浮気男なんて大嫌いだと、誠実な男はいないのかと毎日ジャナへ愚痴っているが、そのマリエラが認めるほど、アルフレードは真面目で誠実。しかも、婚約者はいない。
フィオレにはレオポルドではなく第二王子アルフレードの方が相応しいのではないだろうか。
ふいに、昨晩読んだ父からの手紙を思い出したマリエラは、レオポルドが廃されアルフレードが立太子すれば、同時に、父とエンリコの願いまで叶えられることに気が付いてしまった。
ーーー毎日エンリコが泣いている。夜はマリエラからの手紙を抱きしめ寝ているようだ。『マリーちゃんに会いたい』『勉強も剣術も何でもがんばるからマリーちゃんに合わせてほしい』と、毎日必死に頼んでくるエンリコに無理だと答えるのがとても心苦しい。こんなエンリコに『マリエラが死んだ』などと言ったら、リリーを亡くしマリエラに嫌われた時の私のようになりかねない。エンリコのためにもマリエラを殺すことを止めることはできないだろうか。ーーー
これは、ヴィルガ王立学園へ留学することになったと父へ知らせた手紙への返事。
エンリコはまだ7歳。小さな背中を丸め、声を押し殺し、大粒の涙をボロボロ零しているのだろうか。マリーちゃんと呼びながらこちらへ差し出してくるエンリコのふくふくの小さな手や、足に抱きつかれた時の熱いくらいの体温を思い出し、今すぐ会いに行って抱きしめたくなる。エンリコを使い、マリエラの存在を消さずに残そうとする、父のズルい手紙だ。
この続き、昨晩読んだ時は突拍子も無いと笑って流した父の計画で、父とエンリコの希望も、錠前魔導師になる夢も、フィオレが王妃になって幸せになる夢も、叶えることができるかもしれない。
ーーーリリーにそっくりなイエルは間違いなく学園で1番可愛い。イエルを可愛いと思わない令息なんていないし、レオポルド殿下を誘惑することだって簡単なはずだ。うまく殿下を転がして、イエルとの浮気は契約違反だと殿下を訴え婚約破棄をしよう。マリエラの貴族令嬢としての価値は地に落ちてしまうが、学園へ入学しなくてもよくなるし、結婚も婚約もせずに田舎に引っ込んでいても誰も気にしなくなる。マリエラはカファロ公爵家の領地のひとつで管理人として過ごしていることにすれば、マリエラを殺さなくとも、イエルが錠前魔導師になることはできる。時々イエルからマリエラに戻って、エンリコと、ついでに私とも、会ってくれたら嬉しい。ーーー
エンリコのためというのも本当だとは思うが、ほとんど父の願望。最終的に公爵から引退した後、マリエラが管理しているように見せかける領地で余生を過ごそうとしているのが透けて見える。あの義母が追いかけてくるとは思わないのか、それとも現実逃避しているのか。
フィオレと思い合っているレオポルドにわざと浮気をさせて、フィオレを傷つけ、何も悪くなかったレオポルドを悪者にする。そんなことしたくない。
そもそも、イエルが学園一可愛いと思うのは父の親としての欲目による妄想だし、マリエラのことをお気に召さず遠ざけたレオポルドが、髪と瞳の色を変えただけのイエルに誘惑されるはずがない。
そう笑い飛ばした父の計画。
エンリコには抱きしめて寝るのに丁度良いぬいぐるみと、何か思い出になるようなプレゼントを贈ろう。7歳で母を亡くしたマリエラには、エンリコがマリエラが死ぬことで受ける衝撃と悲しみの辛さは分かるが、父だけでなくフィオレや義母がいるエンリコなら乗り越えることができることも知っている。
ジャナに意見を求めると、不思議と手放しで父の計画に賛成されてしまったが、それでも昨晩のマリエラは実行するつもりはなかった。
父が考え、ジャナが賛成した、可愛いエンリコのための計画。まるでその計画を追行させるためのように、御誂え向きにレオポルドの方からイエルへ話しかけてきた。
レオポルドが元々クズだったおかげで、悪者にして王太子の地位を奪ってしまっても罪悪感を持たずにすむ。そして、フィオレが誠実なアルフレードと結婚して、王妃になって、幸せになれる。
マリエラは、ちゃんと伯父へも相談した上で計画を練り直そうと、父の考えた計画の実行を決めたのだった。
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