聖なる鉄槌

【麻琴、瑠璃色、アメリア(1)】

 地下通路の移動中、大きな血溜りができていた箇所の真上では、蛍光灯の一部が不規則な明滅を繰り返していた。

 瑠璃色は年上の責任感もあり、神経を研ぎ澄ませて先頭を歩き続ける。麻琴とアメリアは、お互い手を繋いでその後に続く。

 どこまで進んでも似たような造りばかりなので、大迷路のアトラクションの中をさまよっているような錯覚を、コンクリートの壁につけられた無数の赤い手形を横目に麻琴は感じる。

 曲がり角を通るたび、ガスマスクの暴漢たちがいつ現れて襲ってくるのか不安ではあったが、誰も武器を持ってはおらず、ほとんど運任せで先へと進んでいた。


「ねえ、ルリちゃん」

「違う。いろだ」

「どこか別のところにも洋服って置いてないかな?」


 麻琴の腰回りは、男物メンズのボクサーパンツが1枚だけで、このまま外に出るには勇気が必要だった。さらにいえば、アメリアはTシャツと下着ショーツだけだし、靴すら履いてはいない。RPGで例えると、この装備は最弱の守備力だろう。


「……正面ゲート近くのショップになら、多少はあったと思うけど」

「えーっ!? 絶対に遠いじゃん!」

「うるさいな! ここは遊園地で、ショッピングモールじゃないんだよ!」


 前方で言い争うふたりとは対照的に、無言のまま後をついていたアメリアが、突然小さなくしゃみをした。それがまた争いの種となる。


「ほらぁ! こんな格好だから、アメリアが風邪引いたじゃん! ルリちゃんのショーパン、貸してあげなよ!」

「おまえは……おい、なんで脱がそうとするんだよ?! やめろよ、マジで!」

「ルリちゃん、絶対にわたしたちより年上でしょ? 年長者なんだから、年下の面倒をちゃんとみてよぉー!」


 力づくで脱がそうとする麻琴の馬鹿力の前に、とうとう瑠璃色の穿くクラッシュデニムのショートパンツがずり落ちる。垣間見えた下着には、彼女の攻撃的な外見とはほど遠い、可愛らしい海外のアニメキャラクターがプリントされていた。


「あっ、それって──」


 それは、夏休みに入ったばかりの時、テレビで地上波初放送された大ヒット作品のキャラクターだった。楽しみにしていた麻琴は、家族と一緒に観ていたので記憶に新しい。

 そんな麻琴の視線に気づき、瑠璃色は顔を真っ赤にして頬も引きつらせる。


「……こっ、殺すぞおまえ!」


 自分とペアコーデとなっている黒いボーリングシャツの胸ぐらを両手で掴み、腹の底から大声をあげる瑠璃色だったが、背後から駆け足のような音が聞こえてすぐに手を離した。

 麻琴とアメリアもそれに気づいたようで、足音が反響してくる方角を固唾を呑んで見守る。

 3人が見つめる先は、丁字路のように突き当たって左右二手に別れていた。足音の主は、そのどちらから必ず姿を見せるはずである。


「誰か……来るぞ」


 ずり落ちたボトムを元の位置に直し終えた瑠璃色が、ふたりをかばうようにして前に立つ。するとすぐに、向かって右側から空色そらいろの洋服を着た少女が、そのまま左側の通路へと走り去っていった。


「えっ! 今のって、凛ちゃんじゃない!?」


 大声を上げた麻琴が、瑠璃色の背中を押す勢いでのぞき込む。


「誰だよ、それ?」

「わたしの友達! 凛ちゃんっ!」

「あっ、おい!」


 凛の後を追いかけて走りだした麻琴を、瑠璃色が慌てて追いかける。日本語がまるでわからないアメリアも、そんな彼女たちの後に続いて走った。


 5メートル先の空色の背中をめざして、麻琴は全速力で走る。

 だが、その距離は不思議と一向に縮まらない。それどころか、逆に突き放されていくのだ。


(あれっ? 凛ちゃんて、こんなに足が速かったっけ?)


 まるで何かに吸い込まれるようにして、凛の姿が小さくなっていく。遠く離れていく。


「凛ちゃん! 待ってよぉ!」


 そんな叫び声も虚しく、凛は振り返りもせずに角を曲がって一度は見えなくなったが、すぐに吹き飛んできて姿を現した。


「ええっ!? なんで!?」


 驚く麻琴の目の前で、床に横たわる凛が突如現れたガスマスクの男に容赦なく金属バットで全身を殴打される。鈍い音に合わせて、華奢な身体が丸まっていった。


「や……やめろぉぉぉぉぉぉぉぉッ!!」


 凶行に為す術もない凛を救出すべく、さらに加速した麻琴が、男の胴体へ凄まじいタックルを仕掛けた。その衝撃で麻琴が被っていた黒い野球帽子が舞い上がり、脇腹から当てられた男も、くの字に曲がって一瞬だけ浮いてから倒れる。

 そのまま間髪いれずに男の背中に覆い被さった麻琴は、左肘関節の内側を男の喉に──けいどうみゃくではなく、気管を狙って──絡め、チョークスリーパーの体勢に入った。

 が、男は軽々と麻琴を背負ったまま立ち上がってみせる。そのまま背中を壁に打ちつけて麻琴を振り払おうとするも、さらに数歩動いたところで、膝から崩れて失神した。


「凛ちゃん!」


 絞め落とした暴漢から素早く離れた麻琴が、傷だらけの凛に駆け寄ったちょうどその頃、瑠璃色とアメリアもようやく追いついてやって来た。

 床の血溜まりに、ショートボブの髪が力なく浸されている。

 袖のないシャツワンピースから露出している素肌も、金属バットで何度も無慈悲に殴打されたその痕跡が、見る者の顔を背けさせるほど痛々しい。


「ああああ……凛ちゃん……凛ちゃん……」


 目を閉じて動かない親友の両頬を、麻琴はそっと手で包み込み、額を近づけて泣いた。


「ま、こ…………」


 かすかに聞こえる、弱々しい呼び声。

 それは、すぐにどこかへと消えていきそうな声だった。


「凛ちゃん?! しっかり! わたしなら、ここにいるよ!」

「マコ……痛い……痛いよぉ……」


 うっすらと開いた瞼から、血と混じり合った涙が静かにこぼれる。赤黒い目玉も見えてはいたが、その場の誰もが気にしない、ほんの些細なことだった。


「大丈夫だよ……大丈夫だから……一緒に帰ろうよ」


 励まそうと握った手は、信じられないくらいに冷たかった。


「ハァァ……ハァァ……」


 ふたたび瞼を閉じた凛は、全身の激しい痛みとおうに苦しみながら、自らの死期を悟っていた。


 少女の短い人生が、様々な思い出が、走馬燈のように浮かび上がっては消えてゆく。だが、そのどれもが凛にしてみれば、正直、実にくだらない事だらけであった。

 抑制されて命ぜられるままに、機嫌をとるようにして自分を隠してきた、そんな人生。あらためて考えると、つくづく嫌になる。この吐き気は痛みとは関係なく、そのためではないかとさえ思えてきた。

 霞む視界の中で、友人のひとりが、そんな自分に涙を流してくれている。


 ああ、やっぱり自分は死ぬんだ。こんなところで死ぬんだ──


 せめて、最後くらいは自分らしく死にたいと、素の自分をさらけ出そうとしてみたけれど、いくら考えてみても、自分らしい自分が見つからない。

 自分を殺していたのは自分自身だったことに、凛は初めて気がついた。


「マコ……友達でいてくれて、本当にありがとう。天国でもよろしく……ね…………」


 友人のひとりに力なく笑いかけて、目を閉じる。

 感覚が麻痺したのか、動かせなくなってしまっていた両手の指先や足先から徐々に、けれども確実に、体温が失われていくのがわかる。


「……凛ちゃん? 凛ちゃん、凛ちゃんッ!!」


 何度も名前を呼ぶ声が聞こえるが、それもやがては薄れていって、耳もとから消えた。


 凛はその最後まで、人を気遣って死んだ。


 やがて、薄明かりの廊下を沈黙が支配する。

 麻琴は正座の姿勢を崩さず、凛の死に顔を見つめたまま、こうを垂れて動かない。

 瑠璃色は立ち尽くすことしか──麻琴に声をかけることができず、ただじっと、何かを待っていた。

 アメリアは、Tシャツの上から胸もとに忍ばせる銀製の小さな十字架にそっとふれると、悲しみにくれる少女の傍らに両膝を着いた。

 麻琴の顔は濡羽色の長い髪に隠れてしまい、うかがい知ることができなかったが、その表情を察するのは容易たやすい。慰めの言葉をかけたいが英語が通じないので、アメリアはせめてもと、麻琴の背中をやさしく撫でさすった。


「あの……麻琴」


 金髪を右手でゆっくりと掻き上げながら、瑠璃色は言葉を探す。けれども、何も見つける事ができなかったので、髪を掻き上げた姿のまま、ため息を吐いた。


「凛ちゃんも連れていく」

「え?」

「凛ちゃんと一緒に帰る」


 微塵も動かずに同じ姿勢で話す麻琴のその言葉に、瑠璃色は左手もさらに加えて頭を抱えた。


「麻琴……ごめん、それは──」

「帰るんだよ、凛ちゃんと! 帰るって言ってるだろ!」


 今にも飛びかかってきそうな剣幕だった。

 瑠璃色にも麻琴の気持ちはわかるが、自分たちが置かれている状況では、それはとても非現実的なことでどうしようもない。


「麻琴、今は無理だよ。運ぶ……連れていったとしても、逃げる途中であいつらに襲われたらどうする? その子は無事に逃げてから、みんなで連れて帰ってあげようよ、ね?」


 なるべく傷つけないように言葉を選んで諭すと、瑠璃色はアメリアとは反対側にしゃがみ込んで麻琴の肩にふれた。

 言葉はわからなくてもその雰囲気で察したのか、アメリアも悲しそうな笑顔をみせる。


『マコト……行こう』


 そう言って額を麻琴の頭につけて、肩を抱いた。


「ウッ……うううっ……」


 どうして、こんな事になってしまったのだろう?

 麻琴は今さらながら、あらためて考えていた。するとすぐに、莉子や彩夏、小夜子たちの存在を思い出す。


「そうだ……みんなも……みんなも危ない……」


 東京ケツバット村へ一緒に来たのは、凛だけではない。ほかの同級生たちも、その身を危険にさらされているはずだ。


「やっぱり行こう、ルリちゃん。凛ちゃん……必ず戻ってくるからね」


 ふたたび泣きはじめた麻琴は、横たわる凛の亡骸なきがらに抱きついて約束をした。

 ふたりに支えられるようにして立ち上がると、先へと進みながら、麻琴は何度も何度も、後ろを振り返って別れを惜しんだ。


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