【ハバキ・ナツミ、莉子】

 あの時……地震の直後、永遠に廻り続けているのではと思われたジェットコースターは、今は無人で定位置に停車している。そして、アトラクションの周囲には、やはり誰の姿も見えない。生命の痕跡がまるでなかった。

 人影といえば、黒いサマーウールのジャケットを肩に羽織る莉子が、デイバッグを抱きしめたまま、閑散とした煉瓦造りの広場のど真ん中で独り途方にくれているくらいだ。


 はぐれてしまった彩夏と小夜子を探そうと、先ずはじめにナツミとやって来たのはケツバット・コースターだった。だが、やはりふたりの姿はどこにもなく、なんの手掛りも掴めてはいない。

 ナツミは「調べてくる」と言い残してジェットコースター乗り場へ向かったきりで、まだ帰っては来ない。かれこれ10分以上は経過していた。


(遅いなナツミさん……もしかして、わたしを置き去りにするために此処ここへ来たんじゃ……)


 不安な表情の莉子は、胸もとのデイバッグに顔を埋める。

 太陽の位置は真昼のそれよりは大分と傾いてはいたが、それでもまだかなり蒸し暑い。肩に羽織るジャケットも、とっくに熱を帯びている。けれども莉子は、それを不快に思うことは決してなかった。

 なぜなら、その熱はナツミの体温のように感じられ、ジャケットからほのかに香る摘みたての瑞々しい薔薇とカシスの余韻も、少女にまだ見ぬ大人の世界を想像させた。

 さらに言えば、まるで彼女ナツミが背中から抱きしめてくれているような錯覚さえも起きていて、それが心強く感じられてもいた。

 持つのは邪魔だろうから、ジャケットは捨てていいと言われても出来なかった。むしろ、お気に入りのデイバッグのほうを捨てようかと思ったほどであった。莉子は、ナツミに依存し始めていたのである。


「莉子ちゃん」

「はい!」


 急に名前を呼ばれたので、授業中に突然指名された生徒のように顔を上げて応える。いつの間に戻ってきていたのか、ナツミが金属バットを右肩に担ぎ、相変わらずの無表情な面持ちで近くに立っていた。

 この人は笑うことがあるのだろうかと、莉子が考えた直後──ナツミは、「次」とだけ言葉を発した。


「はい?」

「次。ここには何もなかったわ。ほかの友達は、どこではぐれたのかしら?」

「あっ……えーっと……」


 慌てて莉子は、煉瓦が敷き詰められた広場を見まわす。


「あっちです! あの先に芝生の小さな丘があって、その近くのベンチで別れました!」


 その方角を指差しながらナツミの顔を見れば、とても不快そうに眉間に皺を寄せていた。

 莉子が話したその場所は、〝穴〟のある場所だった。すなわち、とっくに連れ去られているのでお友達・・・は助かりっこない。

 ナツミは考える。

 それはほんの一瞬だけで、すぐに答えが導きだされた。


「行きましょう」


 足早で先を歩き始めたナツミの後を、莉子も早足で追い掛ける。


「ねえ、莉子ちゃん」

「はい」


 今度は余裕をもって返事をする。


「莉子ちゃんは、お友達や家族のこと、好き?」


 想定外の質問だった。

 普段はあまり深く考えることのない、けれど、とても大切で重要なことを訊かれている。


「あの、はい。好きです」

「どれくらい?」


 言葉を詰まらせた莉子は、あらためて友人や家族について真剣に考えてみた。


 麻琴はバカだけれど、やさしくて思いやりのある、純粋で汚れを知らないイメージがあった。それにあの綺麗な黒い髪も素敵で羨ましい。

 凛は賢くて面白いし、背も自分より高くてしかも美人だ。非の打ちどころがないクラスで一番の、いや、学校で一番の人気者だった。仲良くなれて本当に良かったと心から思う。

 彩夏は気性が激しくてトラブルメーカーではあったが、どこか憎めない側面もあり、たびたび自分と衝突することはあっても、まったく嫌いにはなれなかった。必要悪のような存在だ。

 小夜子は非常におとなしい性格で、なんとも言えない不思議な魅力をもっている。顔も可愛らしくて男子から人気があったが、そのことが災いして、いじめの標的になっているようだった。可能な限り、みんなと協力して抑制してきた成果もあって、最近は標的から外されたと聞いている。


 そんな友達をどれくらい好きかだなんて、莉子は今まで考えてもみたことがなかった。


 では、父親はどうだろう?


 莉子が物心つく頃には、イラストレーターとして軌道に乗り始めた駿介は多忙を極めていたが、それでも時間を割いて一緒に遊んでくれたり、欲しがったものを買ってくれる(もちろん、母親は甘すぎると反対したが)やさしい父親であった。

 だがある時、思春期に近づくにつれ、まわりの友人との……同級生の女子との何気ない会話のなかで、自分と父親との接し方が世間とは違うのではないかと疑念を抱き、それを思いきって訊いてみた。


 創作活動時、自宅から6キロ離れた場所にあるマンション内の一室──仕事部屋で寝泊まりをしている父親と会うには、いつもこちらから出向かなければならなかった。

 小学校からの下校途中、立ち寄ったその日も、製図台に設置された白い大きなケント紙に、駿介は黙々とイラストを描いていた。


「ねえ、パパ」

「んー? なんだい、莉子」

「友達の女の子が言ってたんだけど……4年生なのにパパとお風呂に入ってるのって、おかしいって」


 カリカチュアされた人型の動物たちや、水着姿の少女が浜辺で寝そべる下絵を順調に描き進めていた2Bの鉛筆が急に止まる。駿介は画面から振り返り、愛娘に笑顔を向けた。


「はははは! きっと、お友達やお友達のパパは、恥ずかしがり屋さんなんだよ。でも、莉子はパパと入るの、恥ずかしくないだろ?」

「うん。でも……〝洗いっこ〟までするのは変だって、言われたよ?」

「……莉子は〝洗いっこ〟のこと、お友達に話したのかい?」

「うん」


 その時の父親の顔は、驚きというより、青ざめているように莉子には見えた。

 お風呂場での事は、今までと変わらずに誰にも言わないように強く念をおされてから、駿介はいつもより多目にお小遣いをくれると、「きょうは早く帰って宿題をしなさい」と追い出されてしまった。

 そして、その日の夜から、親子一緒に入浴することはなくなった。



     *



 思春期となった現在、それらの意味も、素手でお互いの身体を洗い合う不自然さも充分にわかる。だが、自分の父親を売り渡すような真似はしたくなかった。

 そのことを思うと、冷静に考えて判断すると、父親のことは、友達と比べるまでもなく好きではない。


「──ごめんなさい。みんなのことをどれくらい好きかまでは、考えたことがありません」


 正直に答えた莉子だったが、それを聞いたナツミは歩みを止めた。


「じゃあ、いらないじゃない」

「えっ?」


 背中を向けたまま、ナツミは続ける。


「どれくらい好きかわからないのは、それって、好きでも嫌いでもないから……普通だからなのよ。ただ、そばにあって、邪魔にならないから手もとにあるだけ。手離したくないけど、失ったら失ったで、〝まあいいか〟ってなるだけ」


 肩越しに振り返ったナツミの両眼が、一瞬だけ斜陽を浴びて紅い宝石のように光る。


「そんな!」


 強く否定しようとしたが、思いつくどの言葉も説得力がない薄っぺらいものだったので、莉子はさらに憤りを感じてしまい、唇を噛みしめる。


「それだったら、自分の身の安全を優先して園内ここから逃げたほうがいいんじゃない? これはね、意地悪で言ってるんじゃないの。わかるわよね、子供のあなたでも」

「あっ……あの、違うんです! その……うまく言えないけど、自分だけ助かっても嫌なんです! 友達やパパも一緒に、東京ケツバット村から逃げ──」


 すると突然、莉子の身体が海老反りになって膝から崩れ落ちる。

 と、同時に、異変に気づいたナツミが、莉子の背後で金属バットを打ち抜いたばかりの赤黒い目玉をした黒い戦闘服の女の頭部を狙って応戦する。

 金属バットが頭に当たる寸前で身を屈めて回避した女は、そのまま素早く凶器を手放して走りだす。そして、ナツミの顔面を目掛けて飛び跳ねた。

 両膝を突き立てて襲いかかった女は、ナツミの顎に両膝を当てると、そのまま彼女の後頭部を両手で抱きかかえるようにして捕らえ、引力に導かれるかたちで勢いをそのままに背中から着地する。


「──うッ?!」


 着地と同時に顎から脳天へと衝撃が突き抜けたナツミは、女から解放されて後ろへと大きく仰け反って倒れた。


「な……ナツミさん……」


 鈍痛が支配するお尻を片手で押さえながら、地べたで苦悶する莉子の視線の先では、赤黒い目玉をした女が仰向けで倒れるナツミの胸の位置にまたがって立ち、冷淡な微笑でその寝顔を見下ろしていた。


(このままじゃ、ナツミさんが危ない!)


 女が手放した金属バットを掴んだ莉子は、それを杖代りにして、なんとか立ち上がる。


「ずっと逢いたかったよ」


 流暢な日本語で話しかける女。ナツミは、瞼を閉じたまま倒れて動かない。気を失っているのか、返事はまるでなかった。

 女の背後では、金属バットを両手で握り構える莉子が襲いかかろうとしていた。が、バットは当たることなく唸りをあげて空を切る。


「きゃあ!?」


 盛大に空振りをした莉子は、勢い余って尻餅を着いた。

 気配を感じてそのまま見上げれば、天高く舞うように大きく飛び跳ねた女のぎらついた両眼が──不気味にゆがんだ赤黒い目玉をした笑顔が──段々と近づいてきて、次第に大きくなって、そして…………


 そこで莉子の意識は、途絶えてしまった。


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