【麻琴(2)】

 冷たいコンクリートの床にうつ伏せで倒れていた麻琴は、頭頂部に心地よいリズムを感じながらわずかに目を開けると、首に残る痛みや湿った股座またぐらの不快感にふたたび瞼を閉じる。

 闇の中で思い返すのは、東京ケツバット村に着いてからの様々な出来事。

 それらは、楽しさよりも苦しみの比重が遥かに大きかった。そして今は、絞殺されかかったうえに、尿失禁までしたのだ。


「うっ……うう…………うあああぁぁぁあああッ!!」


 麻琴は泣いた。

 壮大な言い方をすれば、自分の運命を呪った。もっとも、これまでの体験からして、それは別段大げさな事ではないのだが。

 そんな麻琴を慰めようと、誰かが顔を近づけて頭頂部の髪にそっと口づけをする。


『泣かないで。もう安全よ』

(──えっ?)


 ようやくそこで、先ほどから自分の頭を撫でているのは誰なのか、初めて疑問に思う。

 ビーチフラッグをするように、麻琴はうつ伏せの状態から素早く飛び起きると、横ずわりの姿勢で振り返り、その相手を見た。

 自分の間近で同じく横ずわりをする、白銀の長い髪を所々乱れさせたやつれ気味の少女と目が合う。

 薄暗い廊下の蛍光灯の照明あかりを受けて輝く、あざやかな宝石を彷彿とさせる緑玉色エメラルドの瞳。表情はどこか陰っていて、目もとのくまが抜けるような白い肌に際立っている。

 なぜか身につけている衣類は純白のキャミソールだけであったが、薄弱な白人少女の様子に、お人形遊びをした幼少の記憶が呼び戻された。


「あ……あの……」


 麻琴は言葉を詰まらせ、息も呑む。

 少女の風貌に魅せられたからではなく、相手が外国人だったからだ。


(どうしよう……日本語、わかるのかな?)


 言わずもがな、麻琴は英語が苦手だった。不謹慎ではあるが、少女の健康状態よりも意思の疎通のほうを心配していた麻琴に、少女は挨拶のつもりなのか、天使のように愛らしく頬笑んでみせる。

 とりあえず麻琴も、頬笑みを返す。

 すると、すぐに少女は、ころころと明るく笑いだした。

 今度はさすがに笑い声まで出せない麻琴は、表情だけの笑いで誤魔化そうとする。


「Hey, are you okay?(ねえ、あなた大丈夫・・・?)」


 白人の少女が笑いながら訊ねるが、その笑顔も次の瞬間には驚きに変わる。


『やだ……あなたの首、とっても痛そう』


 そして、悲しみの表情で自身の首にふれる少女。


(うわっ、なんか喋ってるし……なんて言ってるのか、全然わからないよ……)


 教材の学習CDとは違った生の異言語。緊張のあまり〝大丈夫オッケー〟の簡単な英単語すら聞き逃してしまう。


「あー、おぅ……オー、イエス! イエス、イエス!」


 海外で安易にしてはいけない〝なんでも肯定する返事〟をした麻琴ではあったが、偶然にも少女の言葉に答えることが出来ていた。

 それでも心配して麻琴の首にふれようとする少女に、その理由がいまだにわからない麻琴は、思わず頭を反らせてしまったが、その時に首の痛みに気がついて少女が何を話していたのか、ようやくそこで理解出来た。


いたッ?! あっ、わたしの首ね! セェンキュー、セェンキュー!」


 麻琴は精一杯の笑顔で、首にふれようとした少女の片手を両手で握り、感謝の言葉をへんてこな発音の英語で伝える。


『あなたって……まるで英語が話せないのね』


 その手を握り返して苦笑いをみせる少女。そんな少女を気にすることなく、またもや「イエス!」と肯定的な言葉を連呼する麻琴ではあったが、股間の湿り気・・・・・・を急に思い出し、絶望の底へと転げ落ちる。

 目の前の異国の少女は、まだ幼さが残る顔つきからして、自分より歳下のように思えた。そんな彼女にお漏らしが知れたら……

 これから起こるであろう個人的な国際事情に、麻琴の気持ちは急降下してしまい、少女が何か話しかけている事にさえ気づかない。


『──ねえ、聞いてるの!?』


 眉根を八の字にした少女は、しきりに自分の胸を弾くようにして叩き、〝Amelia〟と連呼する。つまり少女は、自分の名前を──自分は〝アメリア〟だと教えてくれていたのだが、麻琴は全くもって気づいてはいなかったのだ。

 アメリアは諦めたようで、落胆の色をみせて視線を落とすと、股間部分が濡れたショートデニムパンツに気づいた。

 ある種の放心状態だった麻琴も、アメリアの視線に気づく。


「ち、違う違う違う、違うから! これは……あのね、違うってば!」


 一気に頬を赤く染めあげ、片手で股間を隠しながら、もう片方の手のひらを激しく揺らして全力で何かを否定する。

 麻琴の命を助けたのは自分で、それが普通のお漏らしではないことを理解しているアメリアは、錯乱状態の麻琴を落ち着かせようとするが、どうせ言葉が通じないだろうと思い、それをやめた。


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