黒翼の天使

【麻琴(1)】

 麻琴が目を覚ますと、先ずはじめに揺れ動いて進むコンクリートの床があった。

 次いで感じるのは、固い物がお腹に当てられた圧迫感。

 何がどうなっているのか、ぼんやりとした意識で考えてみる。

 お尻への激痛、灼熱の舗道、ガスマスクの男に金属バット…………襲われた当時の記憶が徐々によみがえり、自分が誰かの肩に担がれて運ばれていることを理解した麻琴は、息を殺しつつ周囲の様子をうかがう。


 ──ここはどこなのか?


 ひんやりとした空気と薄暗い明りからして、屋内ではあるだろう。気づかれるので辺りをうまく見渡せないが、黒い戦闘服の背中とズボン、軍靴が見える。


 ──ほかに敵はいないか?


 物音や話し声、人の気配は特にない。今のところ、自分とこの男のふたりきりのようだ。


 そうとなれば、後はタイミングを見計らって男を仕留めるだけである。

 右肩に乗せられているので、このまま上半身を起こすようにしてずらせば、男の首を利き腕で絞めることが可能ではあった。

 まだ麻琴の覚醒に気づかれてはいない。

 ほかの仲間たちが来るまえに、急がなければ──


(3、2、1……今だ!)


 麻琴は担がれている姿勢から一気に身を反らせると、完全に油断している男の首を右脇に抱え込む。そして、左腕を相手の右脇の下に素早く潜り込ませ、自分の右手をガッチリと握ってから両足を前屈みになった男の胴体に挟んで逃げられないようにした。

 不意討ちのフロントチョークスリーパーは完璧に決まったが、男は頚動脈けいどうみゃくを圧迫されつつも、最後の抵抗と言わんばかりに首を絞めあげる麻琴もろともコンクリートの壁に激突する。


「うわあああッ!? ングググ……ッ!」


 それでも歯を食いしばって激痛に耐え抜いた麻琴は、腕を離さないで絞め続ける。

 酸素が遮断された脳を守るため、反射反応で強制的に血圧が急激に低下した男は、壁際でゆっくりと、それこそスローモーションで崩れ落ちていく。

 そこでようやく相手の首を解放した麻琴は(今度は救命処置をしない)、この場所が長く続いた通路の途中であることに初めて気がついた。


 このまま戻って脱出すべきか、それとも……


 運ばれていくはずだった道の先へと進めば、ガスマスクの暴漢たちの目的や連れ去られた大勢の来園客の居場所がわかるかもしれない。けれども、自分ひとりで何が出来るというのか?

 麻琴の心は、正義感と現実的な判断のはざまで大きく揺れ動いていた。

 だが、そんな考えは一瞬にして吹き飛ぶ。

 意識を取り戻したガスマスクの男が、麻琴の背後から両手で首を絞めあげたからだ。

 それは実に単純シンプルだった。がむしゃらに、技術などではなく、純粋な殺意で相手の首を両手で握り潰そうとする──ただそれだけのことを相手はしてきた。


「あ……がっ……んが、ンン…………」


 両膝を着いた麻琴は、白目をむいてよだれを垂らす。

 意識は迷うことなく死へと向かう。

 やがて漏れ出た尿が股間を濡らし、太股をゆるやかに流れ落ちた頃、頭上から鮮血と肉片がパラパラと降りそそがれ、頭部を失った男の身体が呆気なく倒れる。

 間一髪のところで、麻琴は迫る死から解放されたのだ。


『まあ! なんて綺麗な黒髪なのかしら!』


 うつ伏せの状態で気絶している麻琴の頭を、痩せ細った青白い指がやさしく撫でる。

 思わず声に出してしまうほど麻琴の髪に魅入ったその人物は、何度も何度も、濡羽色の長い髪を飽くことなく撫で続けた。


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