【雪平忍(3)】
「すまない……美雨……本当にすまない……」
後悔と罪悪感に押し潰された雪平は、握り固めた
「お嬢ちゃん、大丈夫か?」
利き手から伝わる鈍い痛みが熱を帯びていくのを感じながら、目の前でゆっくりと上半身を起こす少女を気づかう雪平。けれども凛は無言のままで、なんの反応もしなかった。
だらりと力なく前のめりになった姿勢。垂れた前髪や顎まで伸びるサイドの髪が、表情をすっかりと隠してしまっていた。
やがて、何やらつぶやく声が雪平の耳にまで届く。
「あ? どうした? 腹でも痛いのか?」
怪訝そうな顔で様子をうかがう。
よくよく聞いてみれば、「違う、違う」と、否定の言葉を何度も繰り返して口にしていることがわかる。
「違う? 違うって、何が違うんだ?」
痺れをきらした雪平は、凛に近づき彼女の両肩を掴み、しっかりと自分に向き直らせる。が──
「なっ?!」
凛のくりっとした白目が赤黒く変色していることに気がつき、身体を強張らせて固まる。
(こいつは……!)
その独特な症状は、異国の同志がもたらした情報の中にあった。
Ketsu Batt Phycho Parasite(KBPP)──
それは、人間の感情を不安定にし、感染者を攻撃的な狂人へと変貌させる悪魔のウィルスで、おまけに筋力さえも飛躍的に増幅させるという驚異の細菌兵器。
(そいつを東京ケツバット村でお披露目すると話してたな。だとすれば、このお嬢ちゃんは、もう……)
苦虫でも噛んだような、辛そうな表情に変えて凛を見つめる雪平。赤黒い両眼はどこか彼方を見ているようで、目の前の雪平を映してはいないとさえ思えた。
「違う……違うよ……本当のわたしじゃない……」
と、その時。不意に凛が雪平の胸に抱きつく。
「おっ、おい!」
慌てて剥がそうとするが、物凄い力でびくともしない。成人男性顔負けの腕力だ。
「違う……こんな服、着たくない…………もう、さわられたくない……違う、わたし……わたしは……」
「お嬢ちゃん!」
抱きつく腕の力が増していく。
それに比例して、雪平の額から汗が噴き出す。
「みんな、わかってない! 本当のわたしを見てはくれない! お父さんも、お母さんも、わたしを助けてくれないんだ!」
(クソッ、なんて馬鹿力だ!)
「──誰かそこにいるのか?」
雪平の目尻に汗が染み込んだ頃、鉄扉の向こう側で聞き覚えのある男の声が呼びかけてきた。時悠真だ。
「この馬鹿野郎! 早く助けやがれ!」
「ああ?……何も聞こえないから、ここには誰もいないみたいだなぁー」
わざとらしく大きな足音をたてて、時悠真は遠ざかってみせる。
「おい、おまえは……この野郎! 冗談はいいから、早く助け……痛ててててッ!?」
細い腕が、圧力を増して食い込む。
背骨から真っ二つになりそうな恐怖を感じた雪平は、必死になって押し退けようとするも、やはり凛にはびくともしない。
ガン、ガン、ガン──ガン!
幻聴ではない、扉の向こうから聞こえてくる金属音。きっと時悠真が、電子錠を壊そうとしているのだろう。
「はっ、早くしてくれぇぇぇぇぇ!!」
一瞬だけ短い電子音が鳴り響いたかと思うと、固く閉ざされていた鉄扉が横移動で開く。
そして、その向う側には、金属バットを右肩に担いだ時悠真が、赤黒い目玉を細めたドヤ顔で力強く立っていた。
「おおおおい!? 嘘だろッ!?」
度肝を抜かれた様子で驚く雪平に時悠真は素早く近づき、抱きつく凛をいとも簡単に引き離してみせる。
「安心しろよオッサン。オレは一応、味方だから」
そう言ってウインクしてみせた時悠真は、引き離した足もとの凛の頭をまるで狙うかのように、金属バットを両手に持ち直して構えてみせる。
「──!? おい、おまえ……やめろ!」
とっさに飛びかかる雪平。
いつかみたく、またもや時悠真とふたりして床に転がり絡み合う。
「何すんだよ、オッサン!」
「正気なのか!? 相手はまだ子供だぞ!」
「殺されかかっておいて、よく言うぜ!」
その隙をついて凛が、開け放たれた部屋から駆け足て逃げだした。
「あーあ、逃げちゃった」
ゆっくりと立ち上がるふたり。
「おまえは……本当に
雪平は、残念がった時悠真を睨みつけながら問う。その目を瞬きもせずに無言で見つめていた時悠真が、しばらくしてから答える。
「いずれにせよ、あの子はもう助からないんだよ。完全に自我が崩壊するのは、時間の問題なんだ。可哀想だけれど、同じ殺すなら、人としていられるうちに──」
言い終えるまえに、一直線に伸びた雪平の腕が──拳が時悠真の顎に炸裂する。
だが、顔を背ける形になっただけで、すぐにまた時悠真は元の位置に顔を戻した。
「馬鹿野郎が…………おまえは本当に大馬鹿野郎だよ。誰が〝味方〟だ。一緒にするんじゃねぇよ!」
憤怒のあまり、肌を赤鬼のように真っ赤にした雪平は、時悠真を残して部屋を出ようと背を向ける。
「……オッサン、ちょっとでも長生きしろよな」
そう雪平に声をかけるが、彼の後ろ姿はもう見えなくなっていた。
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