【小夜子】

 どれだけの時間を歩いているのか。

 小夜子は、園内各エリアをあてもなく徘徊してはいるが、ほかの来園客はおろか、戦闘員たちにすら出会わない。蝉時雨だけが遠くで木霊していた。


(みんなどこにいるのかな? まさか、わたし以外の全員が逃げちゃってて、もう誰もいないとか……)


 力無く視線を地面に落とし、園内をさまよう赤黒い目玉の少女は、孤独に思いを巡らせる。

 広い青空と夏の輝く陽射し。

 天気はこれほどまで晴れやかなのに、どこか押し潰されそうな気持ちで小夜子はうつむいたまま歩き続ける。

 やがて、血で汚れた真新しいスニーカーが涙で滲んで見えた。

 暑い微風そよかぜが弱りきった小夜子の肌を、前髪を、慰めるようにやさしく撫でた頃──災害か空襲を知らせるようなサイレンの音が、すぐ近くでたたずむ頭上の無線屋外拡声器から、鼓膜を突き破るような大音量で流れてきた。


「えっ……? ん、ぐっ、うぁぁ…………あああ……あぁぁあああああああッ!!」


 全身が強張って動かない。

 まるで金縛りのようだ。

 身体の中心から──

 下腹部の奥から──

 何か特別な力が湧き上がってあふれ出すのを感じる。

 それはエクスタシーと同等の、もしくは、それ以上の感覚ではあったのだが、小夜子にはまだそれがなんなのか理解できなかった。

 一瞬だけ恍惚とした表情になってから片膝が落ちかけると、すぐに体勢を取り戻して歩道を踏みしめる。

 自然と足が、一歩、また一歩、自分の意思とは関係なく、身体が勝手に前へ前へと進む。

 穏やかに流れていく景色。

 遠くで聞こえる蝉時雨。

 気がつけば小夜子のまわりには、同じ赤黒い目玉の色をした人々が集まってきていた。数こそは少ないが、小夜子はひとりぼっちではなくなったので、心強く思えた。

 ふらつく意識の中、小夜子は左足を引きずるようにして隣を歩く若い男性に思いきって声をかけてみる。


「あの……皆さんはどこへ行くんですか?」

「ごめん、オレにもわからないんだ。身体が勝手に……いや、これは本能なのかもしれない。この先に何かがあるような、そんな気がして、しかたがないんだよ」


 それは小夜子も同じだった。まるで通い慣れた我が家へ帰るように、足が自然と進んでいくのだ。


「おい、ヤツらが来るぞ!」誰かが声を張り上げる。


 ガスマスクを装着した数名の戦闘員がそれぞれ黒い金属バットを手にして、ゆっくりとこちらへ歩いてやって来るのが小夜子の霞む目にも映った。

 けれども、不思議と恐怖や焦りの気持ちは起きなかった。それどころか、今までに感じたことのないワクワクとしたたかぶりが小夜子の心と身体を強く支配する。


『見てみろよ。あそこにまだ来園客アイツらがいるぞ』

『よーし、オレがもらった!』


 戦闘員のひとりがバットを両手に握り変え、歩く速度を小刻みに早める。

 そして、赤黒い目玉をした集団の最前列にいる女の尻へと容赦なくそれを叩きつけた。


「きゃああああああっ?!」


 尻を両手で押さえながら煉瓦の地面で悶える女に、ガスマスクの戦闘員は容赦なく2発目の準備に入る。

 いつもならばそんな光景に悲鳴を上げる小夜子だが、なぜか今は、とてつもない怒りの感情が込み上げてきていた。

 気がついた時には、まわりの来園客たちと一緒になって、小夜子は戦闘員たちに襲いかかっていた。


『な、なんだと!?』


 大勢の来園客が、最初に攻撃してきた戦闘員をめざして次々と群がり、殴りかかる。倒された戦闘員はガスマスクをむしり取られ、その下の素顔が暴かれた。

 白人だ。

 黒い戦闘服を着た暴漢の正体は、外国人だったのだ。

 外国人の男は、何発も何発も顔を殴られる。その顔に誰かの指が伸び、左の青い眼球をごく自然な動作でくりぬいた。


『ぎゃはぁぁあああぁぁぁああああッ!!』


 苦痛の叫び声が天高くのびる。

 すぐに右目も潰され、体液と共に白い頬を伝って流れ落ちていく。

 その間もずっと殴る蹴るの暴力がふるわれていて、外国人の男は、まるで猛獣の群れに襲われた草食動物の子供のように無力だった。


『いったいどうなってるんだ!?』

『こいつら、狂暴化してやがる……さっきのサイレンの影響かもしれん!』


 歯を剥き出しにした悪魔の形相で襲いかかる来園客たち。金属バットを大きく振り回して牽制するが、数で負ける戦闘員たちは次第に囲まれていく。


『狂暴化した感染者を相手に手加減なんてしてたら、こっちが殺されちまう!』


 小太りの中年女性の尻を叩いて追い払った戦闘員が言う。


『しかし、命令が……』


 首筋に噛みつこうとする老人を水平に持った金属バットで防ぐ戦闘員が、それに答える。

 と、その老人の尻を強烈に打ち抜いて彼を助けた別の戦闘員が、ほかの仲間たちに顔を向けて高らかに叫ぶ。


『全員撤退だ! 穴に戻れ! 撤退だ!』


 仲間が逃げる時間を稼ごうと、そのまま縦横無尽に金属バットを振り回して戦うその戦闘員の太股に、鋭利な痛みが突然走る。

 見れば、赤黒い目玉をぎらつかせた長い黒髪の少女──小夜子が、カッターナイフを太股に何度も執拗に突き刺しているではないか。


『そんな……こんな子供まで……』


 襲撃者が少女と知り、はねのけるのを一瞬ためらってしまった戦闘員。

 だが、それが彼の命取りとなる。

 凶行を続ける小夜子を見つめて硬直したその隙を突いて、次々と来園客が彼に群がったからだ。

 けれどもその犠牲で、ほかの戦闘員たちは無事に逃げのびることができた。


「はぁ……はぁ……はぁ……」


 荒い息づかいを整えようと、小夜子は胸に手を添えてまぶたを閉じた。いまだかつて体験したことのない達成感に酔いしれる少女の肩を、誰かがやさしくそっと叩く。


「あなた、凄いじゃないの。オバチャンなんて、みんなの後ろでギャーギャー騒いでるのがやっとだったのに」


 自分の祖母と同世代くらいの女性が(身体の線はこちらのほうがやや太めだ)そう讃えながら片目を閉じ、小夜子に可愛らしく頬笑んでみせる。


「あの……自分でもびっくりしてます。気がついたら身体が勝手に……なんだか、自分が自分じゃないみたいな……自然と身体が動いたんです」


 頬を赤らめて早口で話す小夜子に、いつしか数人の来園客がまわりを囲む。


「いやいや、オレもそうだけどさ、お嬢ちゃんのおかげで仕返しが出来てうれしいよ」

「まったくだぜ! でもまあ、ほかのガスマスク野郎たちは逃げちまったけどな」


 みなが口々に、とても楽しそうに喋りだす。その後ろでは、最初に襲われた来園客の男性が肩を借りて起き上がっていた。そんな中で小夜子は、戦闘員たちが逃げていった方角を、ひとり無言のまま見つめていた。


 その先に何があるのか──


 遠くのアトラクションの陽炎かげろうや道沿いにある草木、ベンチとゴミ箱などが視界には映っていたのだが、小夜子にはほかの何か……もっと別の〝存在〟が強く感じられていた。


「あの……皆さん!」


 突然の大声。

 周囲の来園客たちが反応して小夜子に注目する。


「あっちにもっと沢山の敵や、わたしたちの仲間がいるような気がするんです!」


 少女が指差したのは、先ほどの戦闘員たちが逃げていった方角だった。


「本当かい、それ?」

「そう言えば、わたしも何か感じるわ!」

「ああ、間違いねえ! 身体がウズウズしてくるから、間違いねえよ!」


 周囲の来園客たちも賛同して、同じ道に赤黒い目玉を向けて野良犬が吠えたてるように声を荒らげる。

 その様子を小夜子は満足そうに微笑みながら眺めていた。下げられた手の中では来園客たちの声に呼応するようにして、カッターナイフが何度も血ぬられたやいばを出し入れしていた。


「あんた、どうする?」


 つり目の中年女性が隣の小太りの男に訊ねる。


「どうするって言われてもなぁ……」


 訊かれた小太りの男は、困惑の色をみせた。どちらかと言えば、さっさと東京ケツバット村を脱出したかったからだ。

 当然ではあるが、ほかの来園客たちもその様子からして同じ考えであるのだろう。そんな彼らに苛立ったのか、小夜子はふたたび声を上げる。


「皆さんは悔しくないんですか!? こんな扱いを受けて……わたしたちは、何も悪くない! それに、ほかの仲間たちは捕まったままなんですよ? 今頃、どんな事をされているのか……」


 自分でも何を話しているのか、涙を浮かべながら声を張り上げて何を言っているのか、小夜子にもわからなかった。わからなかったが、使命感のような見えない力が働きかけ、自分を突き動かしているとしか思えなかった。


「わたしは、ひとりでも行きます」


 人知れずカッターナイフをしまい、小夜子は歩き始める。それは先ほどと同様、自然と身体が動いてのことなのだが、もはや小夜子にはどうでもよかった。


「お、おい!」


 頭の禿げ上がった初老の男性は驚きの表情を浮かべはするが、その場にたたずむだけで動こうとはしない。


「……あんたら、大人なのに恥ずかしくないのかよ!?」


 派手な髪色をした若い女性は、そう言ってから立ち尽くす来園客たちを睨みつけると、早歩きで小夜子の後を追った。

 残された来園客たちが、ざわつきながらお互いの顔を見合わせる。

 やがて、続々と来園客たちは同じ道を、同じ目的地をめざして進みだす。

 次第にその数が、ひとり、またひとりと増えていく。

 様々な方角から、わずかではあるが、赤黒い目玉をした来園客が合流してきたのだ。

 そしてそれは、大勢のひとつの集団となり、その先頭には毅然とした眼つきの小夜子が、彼らを導くようにして歩いていた。


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