【彩夏】
炎天下の園内を無目的で走り回った彩夏は、いつの間にか大きな人工池にたどり着き、ボート乗り場近くの草むらに身をひそめて体育ずわりの格好で震えていた。
青白い顔で震えているのは、ガスマスクの暴漢たちに狙われている恐怖からなのか、それとも、小夜子を身代わりにして生き延びた罪悪感からなのだろうか。
その理由は、自分でもわからない。
もはや何も考えられない。
園内からの脱出や、ほかのみんなと合流するといった事ですら、彩夏はもう、考えられなくなっていた。
そんな時、池のまわりを囲む散歩道から、誰かの話し声が聞こえてくる。
身の危険を感じた彩夏は、草むらから顔をのぞかせて声のするほうを見た。
ボート乗り場をめざすようにして、言い争いをする男女がふたり、こちらに向かって歩いていた。
「──大体ねぇ、こんなに大金をかけて遊園地を造ること自体が怪しかったのよ。今までどおり、〝村〟だけの目立たないやり方でよかったんだから!」
往年の大女優が被るような
「いえいえ、遊園地じゃございません。〝テーマパーク〟です。それにお言葉を返すようですが、これはビジネスも兼ねているんですよ。村民も増えて収益も入る……いい事づくしじゃないですか!」
その隣を半歩ほど下がって歩く背広姿の男も黙ってはいないようで、女が話をするたびに、首を横に振っては何か言葉を返していた。よく見ればその男は、午前中に出会った金子敦士ではないか。
そんなふたりのやり取りをしばらく見ていた彩夏は、自分に危害がないと判断し、ふたたび草むらの中へと顔を引っ込めた。
両足を三角に折り、背中を丸めて太股を裏側から抱き寄せる姿勢ですわる。膝のあいだから地面を忙しなく蠢く黒蟻を眺めながら、彩夏はこれからどうしようかと考え始める。
このまま運よくみんなと合流ができたとして、小夜子の件はもちろん話せないが、いなくなった事については誤魔化せる自信はあった。
けれども、これから長い人生を生きていくなかで、それは重い十字架となって自分を苦しめ続ける事になるだろう。
「クソッ……どうして……」
なぜあの時、小夜子を押してしまったのか。
もう少し様子をみてから、自分だけ逃げられなかったのか。
いずれにせよ、何かのタイミングで小夜子を盾にしたり囮にして逃げる算段ではあった。結局は小夜子を、友人を見捨てるつもりだったのだ。
「畜生……リナが悪いんだ……全部、あいつが……」
やがて目頭が熱くなり、涙がこぼれ落ちる。
不思議な事に、小夜子の笑顔や今まで一緒に過ごした思い出ばかりが頭の中に浮かんでは消え、また現れる。
彩夏はただ、声を押し殺して泣いた。
彩夏は3人
兄たちも年齢が10歳以上離れていたので、そんな彩夏に嫉妬することなく、むしろ自分たちも過剰に甘やかし、妹の家来のようになって従うほどであった。
普通ならば、家族以外と接するようになる年頃には自分とは違う価値観や性格、考え方を友達の立ち振舞いから学び取って成長していくものではあるが、彩夏の場合はまったく違っていた。友人たちを自分と同等とは見ていなかったのである。
お姫さまの自分とは違う、ただの平民たち──それが彩夏の価値観だった。
今現在では、さすがにその思想も変わりはしていたが、自分は〝世界で特別な存在である〟という考え方は、微塵もなく不変であった。
けれども、まさか自分が、たかが友達のひとりへの罪悪感でこれほどまでに苦しむことになるなんて──小夜子の背中を押したあの時には、想像もしていなかった。
(こんな事なら、最初から見捨てて置き去りにして逃げればよかった……)
悔やんでみても、もう遅い。
時計の針は戻らない。
「クソッ……クソッ……」
自分の意思とは反して、涙がまたこぼれ落ちていた。
「いいですか、社長。何度も言いますように、オレはケツバット村の繁栄を考えて──」
「シッ! 何か聞こえる」
熱弁をふるう敦士を制止した女は、人差し指をポンポンと何度も自分の
やがて、近くの草むらに向かって優雅に歩き始めた。
「あっ、社長……」
敦士は〝ガスマスク野郎が出てきたら危ないですよ!〟と止めに入ろうとはしたが、止めたところで素直に聞くような性格ではないことを十分に理解しているので、その言葉を途中で飲み込んだ。
女が草むらを掻き分けると、咽び泣く彩夏とほんの数秒間だけ目が合った。だが、女はなんの興味も示さずにそのまま遊歩道へ戻り、先へと進んでいってしまう。
「おや? キミはさっきの……」
そんな彼女に代わって後からのぞいた敦士が、泣き続けて縮こまる彩夏に話しかけた。
「かわいそうに、みんなとはぐれたのかな? ここにひとりでいたら危ないよ。オレたちと一緒においで」
優しそうに頬笑む敦士をしばらく見上げていた彩夏は、無言で小さくうなずく。
「さあ、立てるかい?」
手を引かれて立ち上がった彩夏は、ずいぶんと先まで進んでしまった女の後を追うようにして、敦士と一緒に遊歩道を進んだ。
「……金子さん、どこへ向かっているの?」
涙が乾いた小麦色の頬を指先で払いながら、彩夏は隣を歩く敦士に訊ねた。敦士のほうは手の甲で汗を拭っていて、その顔は日焼けで真っ赤だ。
「ん? あー、そうだね。ここよりも涼しい所かな」
曖昧な返答だった。
いつもの自分なら、不信感を顔や言葉に遠慮なく現すのだが、今の彩夏にそんな元気はない。
「ねえ敦士、どっち?」
先を進んでいた女は、遊歩道が二手に別れる中央で不機嫌そうに腕を組んで待っていた。
「アッ、はいはい! こちらでございますっ!」
明らかな営業スマイルをみせた敦士が、今度は女を追い抜いて先頭を行く。
相変わらず不機嫌そうなままの女と並ぶかたちとなった彩夏は、自己紹介くらいしようかとも思ったのだが、女の全身から発せられる何か独特な威圧感とレッドムスクの官能的な甘い香りに気負いしてしまい、やめておくことにした。
しばらくして3人は、大きな池を囲む遊歩道の外れにある営業管理センターへたどり着く。
そこは平屋のおしゃれなログハウスで、小ぢんまりとした造りはどこか可愛らしさもあった。
先に到着した敦士は、首から下げたストラップの先をワイシャツの胸ポケットから摘まみ取る。中からは、顔写真付きの名札が出てきた。
どうやら名札はタッチキーにもなっているらしく、ドアノブ横の機械にサッとかざすと、電子音と共に施錠が瞬時にして解除された。
「──蒸し暑ッ!」
敦士の後に続いてログハウスに入った女が、大声で不満を洩らす。人の出入りが長時間なかったのか、室内は熱気と真新しい内装のにおいが充満していた。
「はいはいはいはい、リモコンはどこだったかな……」
窓際の整理されていない事務机の上からリモコンを見つけた敦士は、壁面に備え付けられたエアコンのスイッチを入れる。
ものすごい勢いで吹き出し口から冷気が送風され、サウナ状態の室内がみるみるうちに快適な空間へと変わっていった。
「敦士ぃ」
「はいはい、ただいますぐに!」
黒い革張りソファの上座中央にすわった女が、麦わら帽子とサングラスを外しながら敦士の名前だけを呼べば、敦士は何をするべきか理解した様子で、急騰室へと小走りで向かう。
そしてしばらくすると、琥珀色で満たされた人数分のガラスのコップが乗っかった漆器の
「はい、社長。ガムシロップはお二つで……キミとオレは、ノーシロップ」
そう言ってテーブルのガラス天板の上にコップを置きながら、彩夏もすわるよう、一瞬だけ手のひらでソファへとうながす。
配膳を終えた敦士とほぼ同時に、彩夏は下座のソファに隣り合ってすわった。
「いただきます……」
敦士に礼を言うべきか、それとも、社長と呼ばれたこの女性に言うべきなのか彩夏は迷ったが、結局誰にも目を合わさずに、両手で持ったひんやりと冷たいガラスのコップにつぶやいた。
ガムシロップを持ってきたので、飲み物は紅茶か
驚いて女社長をチラリと見れば、すでに二つのガムシロップは消費された後で、甘くした麦茶を平然と飲んでいるところだった。
「で、これからは?」
女は表情ひとつ変えず、無造作なウェーブのかかった長いグレージュの髪を細くて綺麗な指で然り気なく右へと流しながら、冷たい口調で敦士に訊く。
「はい。ほとんどの従業員たちと連絡がつかないので、おそらくはガスマスクの連中に捕まったものと認識しております。それに〝村〟の安否も心配です。早急に戻られることを提案させていただきます」
先ほどまでの笑顔が嘘のように(きっと作り笑いだったはずだ)、敦士が真剣な眼差しでそう答えているのを、彩夏は麦茶を口に運びながら聞いていた。
「戻るのはかまわないけれど、この子の前でよくもペラペラと喋れるわね」
女は、彩夏をまるで道端の
別に盗み聞きするつもりもなければ、話を聞いたところで内容は理解できなかったのだが、彩夏は自分がこの女にとって邪魔者になっていることは最初から自覚していた。
「あっ、それについては大丈夫です。このガキも〝村〟に連れて行きますので」
平然とそう答えたので、思わず彩夏は敦士の横顔を見た。大人特有の、実にいやらしい笑顔を女に見せていた。
「ねえ、金子さん……〝村〟ってなんのこと? あの……あたし……麦茶、ごちそうさまでした」
飲みかけのコップを置いて立ち上がろうとする彩夏の手首を、顔を向けずに敦士が掴む。
「待てよ、おい。おまえたち来園客は
「い、痛い……離して…………離せよッ!」
敦士の手を振り
ようやく笑顔で振り向いた敦士の目の奥は、一切笑ってはいなかった。
「嫌だ……嫌よ……嫌ぁぁぁぁぁぁッッッ!!」
怯える彩夏が助けを求めて上座の女を見るのと同時に、強烈な平手打ちが日に焼けた頬に
「おまえ、ホントうるさい。黙らないと両目を潰すわよ? 出産に視力はいらないんだから、今すぐそうしましょうか?」
冷酷に、そして残酷に言い放つ無表情の女。
右の目玉だけが、赤黒く妖しい色に染まっていた。
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