【凛(1)】

 ショートボブの頭頂部と背中が猛暑の陽射しで熱を帯び、火でも着いたかのような痛みさえ感じる。凛は、北側ゲートをめざしてから休まずに、もうずいぶんと歩き続けていた。

 麻琴たちのことを考えると、日陰で休んでいる時間などはない。煉瓦で舗装された道を振り返れば、ケツバットン・マンションは遠く離れて豆粒のように小さくなっていた。

 軽い眩暈めまい、それに頬の火照ほてりが、自分は熱中症になったのかもしれないと自覚させる。前髪が汗で額に張りついて不快ではあったが、凛はそれを拭う気にすら、もうならなかった。

 生暖かい風がやんわりと吹いたその時、コーヒーカップのアトラクションの近くで、北側ゲートに向かう黒装束の集団が見えた。


(アイツらだ……北側ゲートもダメなんだ……)


 こちらに気づかれるまえに逃げたいところなのだが、走るには具合が悪過ぎた。

 なんとかならないかと、身をひそめられそうな場所を探す。

 舗道沿いの少し先に、まとまった低木常緑樹に隠れるようにして公衆トイレがあった。あそこならば、日除けや水にも困らないだろう。

 続々と北側ゲートに集まる暴漢たちを気にしながら、凛はゆっくりと公衆トイレをめざして歩いた。



 公衆トイレの手前にある馬酔木アセビを過ぎて女子用口に入ろうとした凛を、背後から何者かが急に襲って抱きつく。

 胸と口もとを押さえつけられ、逃れようと暴れる少女を男子トイレの個室へ強引に引きずり込んだのは、莉子の父親である駿介だった。


「シーッ、シーッ、シーッ……凛、ボクだよ……ボク……」


 自分を確認したことを見届けた駿介は、にやけ顔で凛を解放する。


「駿くん……無事だったんだ」


 個室の扉に寄り掛かりながら息を整える凛。具合の悪さもあって、それ以上喋る気にはなれない。

 だが、トゲのある物言いをしたにもかかわらず、駿介はあえてなのか、気色の悪い笑顔で凛を見つめるばかりだ。


「子供の頃、かくれんぼが大の得意で、いつもひとり勝ちしてたもんさ」


 そう言いながら駿介は、閉じられたままの便器の蓋の上にすわり、股間のファスナーを下ろし始める。何を意図しての事なのか察しがついた凛は、ふらつく頭で憤りを強く感じた。


「本気なの駿くん? 今はどんな状況なのか、わかってるよね?」

「それとこれとは別だよぉ……ねえ凛、口でいいからして……凛、お願いだよぉ」


 そう少女にわざとらしい泣き顔で懇願した駿介は、黒いボクサーパンツの前開きから性器を摘まみ出した。

 しばらく無言で駿介を見下ろしていた凛だったが、覚悟を決め、弱りきった双眸をつぶる。


「わたし具合が悪いから、手でもいい?」


 右サイドの髪を小ぶりな耳に掛けながら、諦めの表情で両膝を薄汚れたタイルの床へ着ける。

 やがてゆっくりと長く、凛は鼻腔から息を吐いた。


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