【ハバキ・ナツミ、莉子】

ちちバンドが暑い」

「えっ?」


 午後の炎天下──

 莉子の3歩先を歩くナツミが、そう言って急に立ち止まる。

 野球少年のように肩に担いでいた金属バットを足もとに転がすと、なんの躊躇いもなく、サマーウールの黒い二つボタンのジャケットを脱いで投げ捨てた。

 慌ててジャケットを拾い上げる莉子。そのままナツミを見上げれば、純白のブラウスのボタンを上から順に開けているではないか。


(まさか、ここで全部脱いじゃうの!?)


 一風変わったナツミの事だから、このまま裸になるのではないかと不安になったが、ブラウスのボタンは胸もとまで開けられただけで済んだ。

 そんな少女の心配事を知らずに、今度は袖を肘の位置までまくり上げる。ホッとひと安心した莉子は、彼女のジャケットを簡単に折りたたんで抱き寄せて持った。

 ナツミが、無言のまま足もとに転がしたバットを拾い上げようとして前に屈む。

 莉子に向けて突き出された格好になった黒いタイトスカート。パンティーラインがくっきりと浮かび、莉子は思わず我が事のように恥ずかしくなってしまい、自分のお尻を手で隠してしまった。

 そんなナツミの後ろ姿を眺めながら、いったい彼女はどこへ向かっているのか、そしてこの先、自分はどうすればいいのか、莉子は考えていた。


「あのう、ナツミさん」

「休憩」

「え?」

「あそこの自販機の近くに、屋根付きのベンチがあるはずだから、そこでちょっとだけ休みましょ」


 バットの先端で指し示しながらそう言うと、そのままバットをふたたび肩に担いでナツミは歩きだす。


「あっ……はい!」


 ジャケットを抱き寄せたまま、莉子もサイドポニーテールの髪型を軽快に揺らして後に続く。

 先に着いていたナツミは、バットをベンチの隅に立て掛けて置き、両手を背もたれに預けて足を組んですわっていた。


「あの、何か飲みますか?」


 財布を出そうと、土で汚れてしまったデイバッグを下ろした莉子に、「その自販機、全部〝毒〟が入ってるわよ」視線を青空に向けたまま、ナツミが冷淡な口調で警告する。


「……毒?」


 その言葉を聞いた直後、ジェットコースター乗り場付近で自販機の缶ジュースを飲んだことを思い出した莉子の身体は、凍りついたように固まってしまっていた。


「自販機だけじゃない。園内ここの食べ物や飲料水、ミストクーラーにも毒が入っているから気をつけなさい」

「あっ、あっ、あの……それって……本当……ですか?」


 顔色を一気に悪くして声まで震わせる莉子に、ナツミは無愛想な視線を向ける。


「大丈夫よ、あなたは。わたしが解毒・・したし」


 そして、唇を意味深に舐めて見せつけた。


(あの時のキッスって、まさか……?)


 その意味を理解した莉子は、ナツミに視線を合わせたまま、自分の唇にそっと指先でふれた。


「なーんてね、冗談よ。でも、こんな物騒な事が実際に起きてる場所だから、安易に物を口にしちゃダメよ」


 無表情で諭すと、ベンチの座板をポンポンと右手で軽く叩いてみせるナツミ。隣にすわれという意味に違いない。

 デイバッグも黒いジャケットも両手で抱き寄せ、莉子は隣に無言ですわった。


「ねえ、莉子ちゃん」


 初めて名前を呼ばれた。

 急なことで、莉子は返事ができなかった。


「これから先は、地獄になるわ。さっきみたいな赤黒い目玉のヤツらで園内ここがあふれかえるの。でも、莉子ちゃんひとりだけなら、逃がしてあげられる。お友達や家族のことは諦めなさい。もう手遅れなのよ」


 青空を見つめてそう淡々と話すナツミに、莉子は言葉を失っていた。

 何を話しているのか理解が出来なかったけれど、友人や家族を見捨てろと言っているのは確かに聞こえた。

 胸の鼓動が高まっていく。

 呼吸も乱れ始めて息苦しい。

 自然と両手に力がこもり、胸もとでデイバッグとジャケットが形を大きくゆがませる。


「そんな……そんな事、できるわけがないじゃないですか!」


 唇がわずかに震えているのを、莉子は感じていた。


「あっそ。でもね、全員は助けられないし、助からないのよ。映画や漫画とは違うの。わかるわよね、この意味?」

「それでも……わたしにはできない……できません」


 真っ直ぐ見つめてくる少女の頬を、涙がきらめきながら静かに伝う。

 しばらく泣き顔から目を逸らさなかったナツミは、ふたたび遠くの青空を見つめてつぶやいた。


「そのジャケット」

「……えっ」

「捨てていいわよ。邪魔でしょ、ソレ」


 ナツミは急に立ち上がるとバットを肩に担ぎ、鼻をすする莉子を見下ろしながらこう言った。


「どこでみんなとはぐれたのか、わたしの気が変わるまえに、さっさと教えなさい」


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