【麻琴、白石親子(2)】

「あれ? 美郷さん?」


 ソファに渉と並んですわり、〝あっち向いてホイ〟をして遊んでいた麻琴が美郷の姿が見えないことに気がついたのは、それから10分ほど経過してからであった。

 応接間を見渡すまでもなく、近くにいない事はすぐにわかる。

 気配もまったく感じられない。

 子供たちだけの空間に、麻琴は不安になり始めていた。


「ママー!」


 ソファから飛び降りた渉は、辺りをキョロキョロと探す。背後の襖がわずかに開かれているのを確認すると、母親を探しに飛び出てしまった。


「あっ! 渉くん、待って!」


 麻琴も急いで後を追うが、板張りの廊下には、もうすでに渉の姿は見えなかった。


「渉くん……?」


 突き当たりの引き違い戸がガタンと鳴る。

 そちらに顔を向けた麻琴は、白石親子がいると思って迷うことなく進んで戸を開けるも、やはり誰の姿も見えなかった。

 致し方なくひとりきりで、冷たいコンクリートの通路を足早に歩く。薄暗い照明と靴音だけが活力を感じさせた。


「渉くーん……美郷さーん……」


 小声で呼びかけるが返事は誰からもなく、その代わり、自分の声が静かに反響するだけだ。

 と、打ちっぱなしのコンクリートの壁づたいを歩けば、すぐに別の扉が見つかった。〝更衣室兼待機場所〟と黒のサインペンで殴り書きされたコピー用紙が貼ってあることから、中は個室であると想像ができる。

 麻琴は一瞬だけ躊躇うも、慎重にゆっくりとドアノブを回す。施錠はされていなかったので、そのまま思いきって開けた。


「失礼しまーす……」


 のぞき込みながら恐る恐る中へ入れば、室内はとても明るくて空調が効いていた。左側の壁際に真新しいロッカーが数台並び、中央には、和菓子の入った籠を乗せた折りたたみ式の長机を囲むようにして、パイプ椅子がいくつか置いてある。

 そのひとつに、美郷が渉を膝に乗せてすわっていた。


「美郷さん、ここにいたんですね」


 後ろ手にドアを閉めながら、麻琴はにっこりと笑いかける。だが、返事はなく、美郷は何も返さない。


「美郷さん?」


 無言のまま渉の頭を撫で続けている美郷の前にすわろうとした麻琴は、パイプ椅子を引いた姿勢で固まった。

 近くまできて初めて気がついたが、うつむく美郷の両目が赤黒く変色していたからだ。


「美郷さん!? どうしたんですか、その目……」

「渉、美味おいしい?」


 美郷は心配する麻琴の声を無視して、膝の上で和菓子を頬張る渉を気にかける。母親からの問いに、渉は小さな頭を元気よく縦に動かして答えた。

 なんとも表現がしようのない異様な雰囲気ではあったが、とりあえず麻琴もすわって籠の中の和菓子に手を伸ばす。


「いただきます……」


 丁寧に破かれる個包装の包み紙には、筆文字で〝銘菓ケツバット饅頭まんじゅう〟と印字されていた。

 饅頭の甘い香りが鼻先をくすぐる。

 麻琴はどこか懐かしさを感じつつ、それを一口で頬張って食べた。

 ふと見た腕時計の時刻は、凛と別れてから1時間近くが経過していた。もうそろそろ戻ってくるかもしれないと思い、麻琴は立ち上がる。


「美郷さん、そろそろ凛が帰ってくる頃だから、わたしは外で待ってますね。部屋に鍵を掛けて待っていてください」


 やはり、相変わらず反応がない。

 そのまま部屋を出ようと背を向けた、その時だった。


「苦しいよ、ママ! もう食べれないよぉ!」


 その声に驚いて振り返れば、美郷が嫌がる渉の口に饅頭を無理矢理に押し込んで食べさせようとしていた。


「渉、食べなさい! 食べなきゃ大きくなれないわよ!?」


 鬼気迫る形相の美郷は、なおも饅頭を強引に押し込む。

 渉も泣きながら抵抗をしてそれを拒み、饅頭は閉じられた小さな唇に遮られ、涙と一緒になってポロポロと崩れ落ちていく。


「……美郷さん! 渉くんが嫌がってるじゃないですか、やめてください!」


 慌てて止めに入るが、ものすごい腕の力で弾かれてしまい、浅く被っていたキャスケットも天井高く舞い上がった。

 尻餅を着いた麻琴は、何がどうなっているのか理解ができず、これが美郷の教育方針なのだろうかと一瞬考えもしたが、それにしても、こんなことは嫌がる子供にすることではない。間違っているとすぐに結論に達し、再度止めに入る。


「美郷さん……美郷さんッ……!」


 なんとか渉から引き離そうとしてみたが、やはり強い力でまるで歯が立たない。膝の上の渉は、涙を流しながら口を一文字にして必死に抵抗を続けていた。


「──美郷さん、ごめんなさい!」


 最後の手段にでた麻琴は、美郷の背後に回り込むのと同時に、一瞬にして彼女の喉仏へ左腕をすべり込ませる。そして、その手を右手でがっちりと組んで、頸動脈を力いっぱい締めつけた。


「ぐご?!……んぐっ、ガハッ……!」


 逃れようとしてよだれたらしながら、必死になって麻琴の腕をきむしる美郷。

 解放された渉は膝から飛び降りると、大声で泣きながら部屋を出ていってしまった。

 首を締めつけた状態で後ろに倒れた麻琴は、両足を美郷の胴体に絡ませてさらに身体を密着させる。

 やがてすぐに、暴れていた美郷の両手は力なく床へと崩れ落ちた。

 仰向けで倒れる美郷が完全に気を失っているのを確認した麻琴は、彼女の両足首を持ち上げて血流を脳へと送り込む。

 まぶたが動いて意識が戻りかけたのを見届けてから、部屋を飛び出した渉の後を追って廊下へと向かう。


「渉くーん!」


 大声で名前を呼ぶが返事はない。

 応接間に戻ったのか、それとも、この先の道を行ってしまったのか……確率は五分五分。下手をすれば、まだ幼い渉がガスマスクの男たちに見つかってしまう。最悪の事態を避けたいところではあるが、運に頼るしか方法がない。それに、いずれ戻ってくる凛のことも気になる。


 いったい自分は、どうすればいいのか──


 脳ミソをフル回転させて考えている麻琴の耳に、渉の泣き声が来た道とは逆の方角から聞こえてきた。


「渉くん!」


 身体が無意識に反応し、全速力で走る。

 入ってきた引き違い戸とは違う金属製のドアを開けると、そこは暑い陽射しが降りそそぐ屋外──ケツバットン・マンションの裏側だった。

 地面からの照り返しや鼻腔から吸い込んだ熱気が、忘れていた真夏を否応にも思い出させる。もちろん、バットの惨劇も。


(渉くん……どこ?)


 辺りを見るが、人影はまったくない。

 確かに渉の泣き声が聞こえたはず。麻琴は、もう少しひらけたところから探そうと前へ進む。

 遠くからのせみ時雨しぐれやどこまでも果てしなく広がる青空、そして天高く昇っている入道雲が、ひとけのないテーマパークの景色を1枚の絵画のような世界に変えていた。

 だが、その時だった。

 お尻に殺気と風圧を感じたが間に合わず、麻琴がバットで強烈に打ち抜かれて前へと倒れる。

 あまりの痛さに声が出ない。声が出る代わりに、涙がとめどなくあふれた。

 激しく痛むお尻を片手で押さえながら四つん這いで起き上がろうとする麻琴を、何者かの影が静かに包み込む。そのままの姿勢で振り返って顔を上げれば、ガスマスクを被った黒い戦闘服の男と目が合った。

 男は、金属製のバットを横に構えて両手でしっかりと握り締め、麻琴のお尻に照準を合わせて2発目を狙う。黒いTシャツの袖と同系色のやや明るい黒の軍用手袋のあいだでは、ブロンズ色の太い二の腕が血管をみるみる浮き上がらせているのが一目でわかった。


「や……」


 やめてくれと懇願するまえに、屈強な男が放った2発目が、押さえる指先を見事によけてお尻にち当たる。


「あああああああッ!」


 今度は園内に響き渡るくらいの叫び声を上げた麻琴は、ふたたびうつ伏せで煉瓦の地面に倒れた。

 やがて男は、そばまで近寄ってきてしゃがみ込み、麻琴の綺麗なぬれいろの髪を掴んで顔を確認する。気を失っているのか、目は閉じられたままだ。


『やあ……可愛い子ちゃん』


 ガスマスクのレンズ越しに、青い瞳が満足そうにゆがむ。

 ほどなくして男は、無抵抗の麻琴を軽々と右肩に担ぎ上げると、上機嫌な様子でカントリーミュージックを口遊くちずさみながら、どこかへと向かって歩き始めた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る