挿話 ある街の道場にて
【母と子】
マラカイは困惑していた。
主催するブラジリアン柔術の道場見学に来ていた親子の母親から、予想外の申し出があったからだ。
「もしも可能ならば、人を殺す
自分の耳を疑った。
この国は近年、犯罪率は著しく上昇しているらしいが、それでも海外と比べると──特に祖国のブラジルとは比較するまでもなく、とても治安が良くて平和な国だと来日以前から知識としてはあったし、実際に来てみてもそう思っていた。
だが、この女性は……この母親は、とても物騒なことを口にしている。自分のまだ幼い、小さな4歳の娘に、人殺しの技術を教えて欲しいと言っているのだ。
マラカイが生まれ育ったブラジルのリオデジャネイロは、治安がまさに悪かった。
どれほど悪いかというと、例えば、イヤホンで音楽を聴きながら歩いているとしよう。するとそこに、まだ子供の……中学生くらいの男の子が
理由は、実に
拒絶すれば殺されるかもしれないから──そういった次元なのだ。
けれども、電車の中で居眠りができて集団強盗に襲われる心配のない、自転車カゴに荷物を置いたまま平気で中座ができるような、そんな平和な国の日本でこのような要望があろうとは、マラカイは夢にも思わなかった。
「あの……スミマセン、日本語、難しくて……よくわかりまセン」
にこやかに片言の言葉でなんとか誤魔化そうとしてみたが、その母親は先ほどと表情を何ひとつ変えずに、ゆっくりと、同じ内容をわかりやすく丁寧に伝えてきた。
これにはマラカイも諦めて、どうしてそんな物騒なことを頼むのか、その理由を訊ねてみることにした。
「実は、以前……わたしと夫は、命を狙われたことがあったんです。結果的には、なんとかふたりとも無事でしたが、やさしい人たちに助けられたからなんです。でも、そんな偶然は何度もこない。この子には……麻琴には、自分の力で生き抜ける力を身につけてほしいんです」
彼女が語った理由は、
「わかりました、奥サン。……本当にダイジョブ? ワタシも、しっかり教えるケド、本当にダイジョブ?」
真剣な眼差しで何度も確認をするマラカイに、その母親も真剣な眼差しで「お願いします」と答えてから、最後に深々とお辞儀をしてみせた。
黒帯が巻かれた腰に両手を添えたマラカイは、うつむいて大きく鼻から息を吐き、稽古場で同い歳や年上の子供たちに混じり、組手の練習を笑顔で楽しそうに励む麻琴を見る。
神よ、許したまえ──
心の中でマラカイは、そうつぶやいた。
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