【彩夏、小夜子(2)】
「リナ、誰もいないみたい。大丈夫だから、早く早く!」
6メートルほど先の隣接する建物──ケツバット・カフェの厨房裏口から押し殺した声で手招きをする彩夏に、土産物店内の従業員用出入口でひとり残る小夜子は、戸惑いを隠せずにいた。
今よりも安全な所へ逃げようと話しておきがら、彩夏はすぐ隣の建物へと逃げ込んでいったからだ。
「やっぱり恐いよ……彩夏、お願いだからこっちに戻ってきて……」
「大丈夫だって! 今のうちに早く逃げよう!」
離れた場所にいても、彩夏が苛立ち始めていることを小夜子は手に取るようにわかった。彩夏は喜怒哀楽が
これ以上怒らせて置き去りにされようものなら、自分は恐怖と緊張の過剰反応でショック死してしまう。小夜子は思いきって、厨房裏口へと走りだした。
真新しい厨房は自然の温もりを感じさせるホールとは違い、あちらこちらが銀色の光沢を放っていて、無機質で殺風景な印象を与えた。
裏口のすぐそばの乱雑に積まれた段ボール箱が唯一それとは別で、外面に記された商品名や産地、イラストからして、中身は野菜だと一目でわかる。よく見れば、小夜子たちが住む地域の県名もあった。
「……彩夏? どこにいるの?」
小夜子がゆっくりとステンレス製の大きな冷蔵庫の前を通り過ぎると、業務用の厨房機器からパチパチと手を叩くような音と焦げ臭い煙が立ち上ってきた。
慌てて近づけば、フライヤーの高温に熱せられた油の中で、何か焦げ茶色の野球ボールくらいの塊が
(大変──火事になっちゃう!)
小夜子は急いで目の前に掛けてあったフライバスケットを手に取り、その焦げ茶色の塊をすくい上げてキッチンシンクに投げ捨てる。新品の流し台から鈍い音と油が跳ね返ってきたが、火事はこれで防げた。
(うわぁ……気持ち悪い……何これ?)
のぞき込んでまじまじと見つめても、やはりなんなのかわからない。異臭を放つこの塊が後から燃えるかもしれないので、小夜子は念のために蛇口を捻って水をかけることにした。
断末魔のような音と湯気を発した塊は、焦げた表面がポロポロと水圧で崩れ、その正体が挽肉だとすぐにわかった。
(……そうだ、彩夏を見つけなきゃ)
捻った蛇口をしっかりと締め直した小夜子は、視線を感じてすぐに振り返る。目の前には、無表情でたたずむ彩夏がいた。
「さや……か……」
「何このにおい? のん気に料理でも作ってたの?」
真顔で喋る彩夏の目には、まるで光が感じられなかった。
「えっ、違うよ! あの……そこの中でお肉が燃えて火事になりそうだったから、それで……その……」
「燃えたっていいじゃん、こんな店。それよりさ、キッチンだから何か刃物とか探して武器にしようよ」
小夜子の言葉を遮るようにそう話す彩夏は、キッチンシンクの前でしゃがみ込んで観音扉や引き出しを開けようとした。すると突然、何かが割れるような大きな音が聞こえたので、驚いたふたりは、辺りを見まわす。
先ほどの厨房機器の前で、昼食の時に接客をしてくれた若い女性店員が、フライヤーの中をのぞき込むようにして背中を向けて立っていた。
その女性店員の足もとには白い陶器の破片がいくつも落ちていて、元々どんな食器だったのか、想像ができないくらいに砕けて散乱している。
「あっ、あの……大丈夫……ですか?」
小夜子は、恐る恐る声をかけてみる。
彩夏も立ち上がり、無言で女性店員の背中を見つめ続けていた。
「ない……ない……」
「はい?」
聞き取れそうにないくらいの小声を発する女性店員。小夜子は不安を感じたが、少しずつ近づいて様子をうかがう。
「どうしました? あの……」
一歩、また一歩と、ゆっくり近づく。
「ない……
女性店員の白いはずの眼球は赤黒く変色していて、両頬には血の涙が流れていた。それと同じように、鼻の穴からも血の筋が滴り落ち、唇のまわりを深紅に染めていたのだ。
「ねえ、食べた? あたしの
女性店員の表情が、みるみるうちに鬼のような形相に変わっていく。よく見れば、だらりと下げられた右手には、血の付いた銀白色のフォークが握られていた。
「あっ、あの……食べてません! 焦げて燃えそうだったから……その、処分はしました!」
小夜子は驚くあまり、腰を抜かしそうになって数歩後ろへよろける。
と、よろけた小夜子の腰を両手で受け止めた彩夏は、なぜかそのまま強く押し戻す。
押された小夜子は女性店員の胸に飛び込んでいき、抱きしめられる格好となった。
(──えっ?)
何が起きたのか小夜子が理解するよりも早く、彩夏は厨房を飛び出て、ホールへと逃げだしていった。
「彩夏!?」
ひとりだけ助かるために自分を
豹変した店員から必死に逃れようともがくが、女性とは思えないほどの強い腕の力に、身体を締めつけられて離れられない。それでも小夜子は、抵抗を諦めなかった。
「嫌ぁ……離してッ!」
「おまえぇぇぇ! 処分したって、何様だよぉぉぉぉぉぉぉぉぉッ!?」
店員は、胸もとでもがく小夜子を左腕1本で押えつけながら、フォークを握る右手を天高く振りかざす。
「何様なんだよぉ、オラァァァァァッ!」
そしてそのまま、少女の長い黒髪ごと薄い背中に突き刺した。
「きゃあああああああああ?!」
小夜子は激痛のあまり膝から崩れ落ちそうになるが、赤黒い目玉をした店員は、それを許さない。
左腕で身体を押さえつけたまま、さらに容赦なく、背中を突き刺して、突き刺して、突き刺す。氷の塊をアイスピックで細かく砕くようにして、小夜子の背中を素早い動作で刺しまくる。
「痛い痛い痛い……! いやぁぁぁ……痛い痛い、痛いぃぃぃぇえああああああぁぁいやぁぁぁやめてやめれやめ、痛い痛い痛いよぉぉぉぉぉぉぉお母さぁん助けてぇぇぇぇぇ……ああああああぁぁぁああああああんぁぁああああああああッ!!」
眼球が飛び出さんばかりの凄まじい形相で、小夜子は絶叫する。黒髪を振り乱し、
凶器がフォークなので傷が浅く、すぐに気絶することなく、苦しみ続ける。
「あああ……なんれ……なんれなんれ、れ、れ……ぇぇ……さやがぁぁぁぁ……さやぐぁぁぁ、あ、ぁあぁぁ!!」
厨房に──
ホールに──
店内すべてに響き渡る小夜子の叫び声。
ついさっきまで、同級生たちと仲良く食事をしたオーク材の円卓と時悠真がすわっていた席のあいだを、両耳を手でふさいで彩夏が涙目で走り抜ける。
これでいい、これでいいんだ。
生き残るためには、しかたがないんだ。
自然界ならば、小夜子のような〝弱者〟はとっくの昔に死んでいる。人間社会だからこそ、きょうまで生きてこれたんだ。
非常事態だし、これはしかたがない事なんだ。
してしまった
「うああ……あ、あ、あっ……あ…………あ…………」
刺され続ける背中が一面真っ鮮血で赤に染まり、ついには意識が薄れ始めたその時、小夜子は最後の力を振り絞ってショートデニムパンツの後ろポケットに右手を入れる。
弱々しく引っこ抜かれた手は、
「──ぐぇがハァッ?!」
首筋から手が離れるのと同時に、血飛沫が凄まじい勢いで吹き出す。銀色の無機質な世界が血液で彩られ、辺りを赤く変えていく。
やがて、店員は小夜子を解放すると、傷口を押さえながら
ようやく自由の身になれた小夜子も膝から崩れ落ち、朦朧としていた意識が途切れて前のめりに倒れる。
小夜子の血ぬられた右手には、カッターナイフが握られていた。
それは少女の〝御守り〟──
心が傷つき壊れかけていた少女の、最後の切り札だった。
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