【凛、麻琴】

「マコ、そっちは?」

「ううん、ダメ。結構近くにひとり歩いてる」


 謎の襲撃者たちの魔の手から間一髪で逃げのびた凛と麻琴は、〝名物ケツバット・チュロス ~インスタ映え間違いなし!?~〟と張り紙のされた小さな売店の裏に隠れていた。

 さらに遠くへ逃げるべく様子をうかがうも、黒装束の人影がちらほらと確認できたので、なかなか動けない。


「あっちは……誰もいないみたい。マコ、行こう!」


 もっと安全な場所を探したいふたりは、身を屈めながら小動物のように注意深く周囲を見渡しつつ、物陰に沿って移動する。やがて、ケツバットン・マンションのある北エリアへと入っていった。

 ひとけのない小路を影踏みのようにして進んでいくと、麻琴は夏咲躑躅ナツザキツツジの茂みの中で隠れる若い女性と目が合った。


「凛ちゃん、ちょっと待って! あそこに誰か隠れてるよ!」


 前屈みの麻琴が、辺りを警戒してから朱色が咲き乱れる花壇へと素早く近づく。その女性は、幼い男の子を抱きしめて土の上にすわっていた。


「大丈夫ですか?」


 すぐに追いついた凛が、声をひそめながら女性に訊ねる。


「ええ……でも、いったい何が起きてるの? 警察は、まだ来ないの?」

「いま言えるのは、非常に危険であるということです。ここって市街地からかなり離れてるし、警察はしばらく来ないかもしれません。もう少し我慢するしかなさそうです」


 言いながら凛は、スマートフォンが圏外になっているので、そもそも通報がされているのか心配ではあった。だが、これ以上不安要素を伝えてもマイナスになるだけと考えて、それについては黙ることにした。


「ママ、お腹すいたぁ」

「我慢して渉。後で美味しいもの、いっぱい食べようね」


 我が子に笑いかけながら、ふたたび抱きしめ、背中をやさしく撫でる女性を見つめていた麻琴は、自分が背負っているデイバッグの中にお菓子が入っているのを思い出した。


「あっ、ちょっと待ってて!」


 個包装のスナックバーを1本取り出した麻琴は、封を開けてから笑顔でそれを男の子に手渡す。


「チョコレートが溶けかかってるけど……はい、どうぞ」

「あっ、すみません……ほら、渉。おねえちゃんに〝ありがとう〟は?」

「おねえちゃん、ありがとー」

「いいえ、どういたしまして。うふふ、かわいい」


 小さな唇のまわりにチョコレートを付けて美味しそうに頬張る渉の頬っぺたを、笑顔の麻琴が人差し指で何度も突っつく。


「食べてるんだから、やめなよ。それよりさ──」


 凛は、夏咲躑躅の茂みの向う側にある、強固な造りの武家屋敷をじっと見ていた。

 純和風の建築様式が園内のほかのアトラクションとは趣が大きく異なっているため、場違いな印象を強く受ける。

 けれどもそこは遊園地なだけはあり、ところどころが簡略化されていたし、質感も妙な光沢があったので、使われているのは本物の木材ではないのだろう。


「マコ、あれって……お化け屋敷かなにか?」

「ううん、ケツバットンのおうちだと思う」


 麻琴はお昼前にパンフレットで仕入れた情報を、渉の口もとの汚れが母親のハンカチで綺麗にぬぐぐわれていくのを眺めながら、凛に伝えた。


「アイツの家か……」


 隠れて助けを待とうかと考えた場所がケツバットンの家と聞いた凛は、園内から自力で脱出すべきか、その考えを改めていた。


 子供3人に大人の女性がひとり……暴漢たちがかっする園内を抜けて、無事に逃げだせるのか?

 何度も頭の中で危険予知シミュレーションをしてみたけれど、そのどれもが失敗に終わった。


 凛はため息をついてから親子に向き直り、これから行動を共にする仲間たちに自己紹介を始める。


「わたしの名前は凛。こっちは麻琴って言います」

「あっ、わたしは白石しらいしさとです。この子は渉。渉、おねえちゃんたちにご挨拶は?」

「……こんにちは」


 膝の上で少し恥ずかしそうに人差し指を甘噛みしてから、渉は母親の胸もとに顔をうずめた。その様子を見た凛が、どこか悲しげに微笑む。


「ねえマコ、パンフレットってまだ持ってる?」

「うん」


 ふたたびデイバッグを漁った麻琴は、すぐにくたびれたパンフレットを見つけ出してそのまま凛に手渡した。

 凛は受け取ったパンフレットからエリアマップのページを見つけると、みんなが見れるように地面に広げて説明を始める。


「わたしたちが居るのは、ここ」


 現在地であるケツバットン・マンションの手前にある、緑色の茂みと朱色の花のイラストを指差す。


「んー……正面ゲートはこっちだから、ここから一番近い出入口は北側ゲート。逃げだすんなら、このゲートかな」


 現在地の北北西に位置する、正面ゲートと同じ白い門扉がえがかれた箇所へと人差し指をすべらせながら、凛はパンフレットを見下ろす美郷と麻琴の顔を交互に見た。


「でもさ、どの出入口も危なくないかな? アイツら数が多いみたいだし、絶対に見張ってるよ?」

「ええ、わたしもそう思う。警察が来るまで、隠れていたほうが安全じゃないかしら?」

「警察が来る……か。あの……理由はわからないけど、地震が起きてからスマホは使えなくなってるし、誰も警察に通報はしてないと思います。だとしたら、いつまで隠れていても助けは……絶対に来ない」


 凛の言葉に、麻琴と美郷は息を呑んだ。

 しばしの沈黙が、遠くの雑木林で鳴くせみの声を耳に運ぶ。


「それじゃあさ、みんなで逃げようよ!」


 麻琴の進言に、凛は目を閉じて首を横に振った。


「今、園内で4人全員が動けば結構目立つ。だから、わたしが様子見や助けを呼べそうか確認しに、ひとりで北側ゲートに行ってくるよ」

「えっ?!」

「ひとりでって、あなた……!」


 凛の提案に麻琴は言葉を失い、美郷は反対しようとした。だが、かといって代わりに良い案もなく、せめて大人の自分が行かねばと思うのだが、幼い我が子を置いていくことも出来なかった。


「時間はないんです。1分1秒を争う。いつアイツらに捕まっても、おかしくはない状況下なんです。わたし、足の速さに自信があります。ひとりなら絶対に逃げきれる自信があります。だから、わたしが──」


 そう熱く語る凛の手首を、麻琴は強く掴んだ。


「駄目だよ凛ちゃん。行くんなら、わたしが行くよ。わたしのほうが足が速いし、それに、護身術も習ってるから結構強いんだよ?」


 麻琴が片腕を上げて力こぶをつくってみせたので、隣で見ていた渉もそれを真似して満面の笑顔で同じポーズを取ってみせる。

 確かに、麻琴のほうが身体能力に関しては上であった。常に体育の実技の成績は上位であったし、なんの競技もやらないのはもったいないと、常日頃から陸上部の顧問の教師に入部の誘いを受けていた。

 それに何よりも、麻琴は幼少の頃から週に数回、ブラジリアン柔術の稽古にも通っていたのだ。

 それは、両親からの強い意向だった。

 物騒な世の中だから、自分やほかの人たちの身を守れるように──そういった正義感があふれる理由ではあったが、麻琴自身も楽しめて取り組んでいたので、今日こんにちまで欠かさずに続けられていた。


「だからこそ、マコが残って美郷さんや渉くんを守ってあげてよ」

「あっ……」


 凛のそんな言葉に、麻琴は何も言い返せなかった。


「この茂みの中で隠れていても、見つかるのは時間の問題だと思います。わたしが戻ってくるまでのあいだだけ……ちょっと気が進まないけれど、あそこのケツバットン・マンションに隠れていてくれませんか?」

「……はい。ごめんなさい、凛ちゃん。本当に、ごめんなさい──」


 美郷は涙をにじませながら、大きな決断を下した少女の両手をやさしく握った。


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