「スマートフォンと僕(1)」
お母さんは僕に、
「今は無理をせずに好きなことをしていいよ」
と言ってくれた。
あの日から、母さんは僕にたくさんの「ありがとう」を言ってくれるようになった。
今までみたいな「頑張ったね」ではなく、「ありがとう」だ。
「生まれてきてくれてありがとう」。「今日も生きていてくれてありがとう」。「彰が生きてくれているだけで、お母さんはこれ以上ないくらい幸せなんだよ。ありがとう」って。
実際、母さんにそう言われるたびに、僕の心は救われていった。それは無条件で僕を愛してくれる母さんの魔法の言葉だった。お陰で僕は、「今は休んでも良いんだ」って、「好きなことをしてもいいんだ」って、心の底から思えたんだ。
でも、
僕が実際にやれた事といえば、朝起きて夜寝るまで、布団の中に引きこもりながらスマートフォンを眺め続けるだけだった。
目が覚めたら、顔のそばにはスマートフォンの明かりがあって、僕は吸い込まれるようにスマートフォンを右手で握ってしまう。
いつか止めないとな。今日こそは何か他のことをしよう。
少しだけ見て、スマホを置こう。
朝起きた時は毎回そう決意するのに、僕は結局スマホの魔力には抗えなくて、気づくと日が沈んでいて自己嫌悪に陥ってしまう。
あぁ、今日もこの一日を無駄にしてしまった、と。
東京に帰ってからずっと、毎日youtu◯uやアニメばかりを眺めていた。
お母さんは、一日中スマホを眺める僕を肯定してくれたけど、
僕はやっぱり苦しくて、何もできない自分が大嫌いだった。
こんなの、まるでニートじゃないか……
やめなくちゃいけないのに……身体が動かない。
それほど面白くもないのに、次の動画は面白いんじゃないかって期待して、クリックするのがやめられなかった。
そしてまた苦しくなる。
身体がしんどかった。
全身の細胞がまるでやる気がなくて、全身鉛かよってくらい重たくて、
朝目が覚めても、身体がダルくて起きる気力が沸かなかった。だからスマホに手を伸ばしてしまう。
スマホを眺めることだけは、布団に寝転びながらでもできる娯楽だった。
この起きれない。まるで重力が100倍になったみたいな重さこそが、僕の罹った病―ーうつ病であるらしい。
でも……
「悔しい……」
こんな片手に収まるくらいの小さな箱にすら勝てない自分に、僕は悔しくて悔しくて、歯を痛いくらいに噛み締めた。
「……クソっ……クソぉ……クソぉっ……!!」
こんなもの無ければ良いっ!
そう思うけれど、やっぱり手放すことが出来なくて。
机の引き出しの奥に隠しても、すぐに見たくなって引っ張り出してきてしまう。
僕は僕の人生を奪うこのスマートフォンをぶっ壊してやりたかった。
……こんなもの、この世になければ良いのにっ……!
こいつのせいでっ……!
ガツン、
と僕は、手の届かない方へスマートフォンを投げ飛ばした。
こいつのせいで夜も寝付けないのだ。暗くなって布団に潜っても、日付が変わっても……本当に眠くなって寝落ちするまで僕はスマホを眺めるのをやめることが出来なかった。
あぁ、そういえば今日、「みずモブ」の放送日だったな。
僕はふと、毎週見ているアニメのことを思い出して、畳を張ってスマホを拾いに行くのだった。
僕は、スマホに抗えない。
布団のなかから出られない僕には、もうスマホしかなかったのだ。
(もうどうでもいいや。疲れた。何も考えたくない……)
そんな無気力無表情で握りなおしたスマホの画面に、ピロピロンと一件のメッセージが飛んできた。
「
それはつい先日、向こうの病院で連絡先を交換したばかりの彼女からだった。
『見て! 綺麗な夕焼け!✨️』
そんな短いメッセージと共に、送られてきた一枚の写真。
黄金色の稲穂の海に赤とんぼがたくさん浮かんだ。夕方の茜色いっぱいの夕焼け空だった。
懐かしい風景だった。
昔、この写真の中が日常だった日々は、毎日が楽しくってしかたなかった。
本を読むよりもテレビを見るよりも、僕は千夏ちゃんや明美ちゃんと遊ぶのが好きだった。
それこそ虫取り網を片手に赤とんぼを捕まえたり、たまにはもっとレアなとんぼを捕まえたり。
鬼ごっこしたり、かくれんぼをしたり、ドロケイをしたり。
そうだ。あの頃は、
明美のお兄ちゃんやお姉ちゃんは僕たちといっつも遊んでくれていた。今思えば近くに遊べる友達がいなかったのだと思う。僕たちの家は田舎のあの地域でもさらに外れた所にあったから。
あの頃の僕が、10年後、一日中部屋に引きこもる不登校になるなんて知ったら、どんな顔をするんだろうな……
きっと信じられないだろうな。
外遊びと友達遊びが大好きな、あの頃の僕はどこに消えた……?
何やってるんだよ。僕は……まるでダメ人間じゃないか……
『うん、めっちゃ綺麗! 懐かしい景色!』
僕は短く感想を打ち込んで送信した。
惨めなのか懐かしいのか分からない涙が、ポロリと目尻から溢れ出した。
『こっち来れば、
三日後の夏祭りは楽しみにしとるけぇ!』
そんなメッセージと共に、夕焼けを背景に移した私服姿の明美の自撮り写真が送信されてきた。
ほぼ下着のシャツみたいな鎖骨を露出する上着に、ほのかな茶髪が夕陽の明かりでテラテラとオレンジ色に反射していた。
ふわふわとしたショートカットの前髪が明美の表情に糸のような線の影を落とし、
目を奪われるように綺麗で可愛いくて、思わず呑み込まれてしまいそうで僕はドキリとした。
本当は『綺麗だよ』って伝えたかったけれど僕にはそんな勇気がなくて、『うん、僕も楽しみだよ』って返信したら。
あぁ、これは、どう答えるのが正解なのだろうか。
『可愛いよ』と言ったらキモがられないだろうか? 『綺麗だよ』なんて言ったら、まるで告白みたいじゃないか!
心臓をバクバクとさせながら、久しぶりに感じる緊張感の中で、僕は適切な言葉を必死に探した。
でも、決して嫌な気分ではなかった。
むしろドキドキして、興奮して、楽しくって。
子どもの頃、三人と一緒に遊んでいた時間のような。刺激的でもどかしい感情が胸のなかで湧き上がっていた。
結局僕は、『すごくいいと思うよ』という無難だと思われる答えを返信した。
送信した瞬間。既読がついた。
そして……
『ありがとう』
そんな文面が帰ってきたのだった。
その文字列を見た瞬間。僕は魂が震えるほど嬉しくって、幸せで、胸の奥が熱くなって、なぜだか泣きそうになっていた。
その言葉を噛みしめるみたいに、僕はじっとその返信を眺め続けた。
あぁ、楽しい。これが幸せなのだろうか?
こんなに心が震えたのはいつ以来だろうか。
アニメでボロ泣きしたことは最近もある。芸人さんのコントで大笑いしたことは最近もある。でも……
『僕こそありがとうだよ』
気づけばそんな文章を夢中で打ち込んで送信していた。
それが何なのか、今はうまく言語化できないんだけど……
本当にありがとう、
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