「ただいま東京」


あきらはうつ病なのかもしれないね」


 帰り道、母はぽつりとそう言った。

 せみの声が微かに残る、夏の終わり、東京への帰り道。

 あと少しで自宅であるボロアパートに到着する住宅街。僕は母さんと二人きり、蒸し暑いコンクリートの上を歩いていた、


「うつ病?」


 松葉杖の僕は、隣を歩く母さんに聞き返した。


「うん。どんなに頑張りたくても頑張れなくなる病気、それがうつ病や。

 真面目な人や責任感の強い人ほど、無理して頑張りすぎて、うつ病になりやすいんよ。

 そうなるといくら頑張ろうと思っても頑張れなくなって…… まるで今のあきらとおんなじや。

 だからあきら、自分を責めちゃいかん。

 あきらが具合が悪いものしんどいのも全部病気のせいや。あきらはちっとも悪くない」


「病気……」


 その言葉を飲み込むのには、時間がかかった。

 うつ病、病気……

 その存在はネットか何かで知っていた。

 初めてうつ病という言葉をきいたときは、怠け者や駄目人間の言い訳だとしか思えなくて、まさか自分がそうだなんて夢にも思わなかったけれど……


「……僕は、うつ病、なのかもしれない……」



 言葉にして吐いた瞬間。

 全身が震えて、今まで身体を重くしていた黒い澱みが全て涙に変わっていくように……

 ……空に浮かんだみたいに身体が軽くなって、涙がポロポロと溢れ出して止められなかった。


「そうだ。僕は、うつ病なんだっ……!」


 うつ病という言葉の響きにはまだ抵抗感はあったけれど、

 思いきって声に出して認めてしまえば、その病名は暖かく優しく僕を受け入れてくれた。


 あぁ、僕が頑張れないのは、僕のせいじゃなかったのか。

 良かった……

 そうだ僕は、自業自得じゃなかった。

 ……僕は病気なのか。

 

 ずっとずっと、何もかも自分が悪いと思っていた。

 怠けるのは自分の甘え。

 頑張れないやつに生きる価値はない。

 苦労人の母さんのために、良い企業に入って支えないといけない。


 だから、頑張ることが出来なくなって、学校に行けなくなって、布団から立ち上がることすら難しくなった僕は……

 お母さんが汗水垂らして稼いだお金で、食って布団で寝込むことしか出来なくなった僕は……

 もう死ぬしかない、生きてる価値がないと思ってしまった。


 でも、僕はうつ病だった。病気だった。

 頑張れないのも死ぬほど辛いのも学校に行けないのも布団から身体を起こせないのも……ぜんぶ僕のせいじゃなかった。


あきら。こころの病院に行って見てもらおう。……きっとお医者さんは彰に寄り添ってくれるから……」


 お母さんから抱きしめられて、頭を撫でられて、

 僕はまたみっともなく泣いてしまう。

 家の外なのに、近所の誰かに見られているかもしれないのに。

 

「うん…分かったから、早く家に帰ろうっ……」


 僕は恥ずかしくって母さんの腕を振りほどいた。

 松葉杖があるせいで、駆け出せないのがもどかしかった。

 僕は表情を隠しながら、身体中が熱くなっているのを感じていた。


「ありがとう……僕のために、いろいろ調べてくれて……」


 感謝を、素直に口に出した。


「あったり前よ。……でも、まだまだ勉強不足や……

 いろんな本を読んでみて、母さんも反省することばっかりや……」


「……ありがとう」


 僕がいまここに生きてるのは、お母さんのお陰だから。


「……僕も、調べてみるよ。自分の病気について」


「うん。でも無理はせんでね。いまは何も考えず休むことが第一や。何も頑張らんでええ。好きなことを何でもやればええ。

 まず母さんは、評判良い心療内科さんを探して予約しようと思うとるけど、それでええか?」


「うん。お願い。ありがとう母さん」


 母さんの言葉ひとつひとつが、僕の心を軽くしてくれた。

 母さんがくれる愛情が僕に生きる意味と希望をくれている気がした。



 ★★★



 僕と母さんは東京郊外のアパートへと帰宅した。


 帰宅早々、蛇口から出る水道水が不味くて吐きそうになった。

 浄水器を通すかお茶として沸かさないととてもじゃないが飲めたものじゃない。

 いっぽうド田舎の僕らの故郷ふるさとでは、川の水を飲めるほどじゃないけど、ありとあらゆる蛇口からでる水はどれも例外なく美味しかった。


 千夏ちなつ明美あけみがもし東京に来ることがあったら、二人はこの水道水にどんな反応をするのだろうか?

 ふと想像して可笑しくなって、僕はくすりと笑った。

 「なんよこれ!?」とか「これほんとに水なんか?」とか言い出して騒がしくなる様子が目に見える。

 あぁ、楽しい景色だ。


 千夏ちなつはこの世にいないから、もう三人で一緒にはなれないけれど……

 せめて妄想のなかでくらい、あの頃のままで居たかった。


 あぁ、千夏ちなつ

 僕はやっぱり、千夏ちなつのことが大好きだった。

 あの崖の上で再会してから、僕は東京に引っ越した後も、ずっと千夏ちなつに恋し続けていたんだと気づいた。

 もう、千夏ちなつには二度と会えない。

 だからせめて、想像の中だけでも……


 しばらくぶりの自分の部屋に戻り、僕は部屋に鍵をかけた。

 色褪せたアルバムを取り出して、机の上のテッシュ箱を鷲掴みにして、敷布団を敷いて中へもぐりこむ。

 僕は千夏ちなつのことを考えた。


 熱い……


 あの満天の星空の下、切なく泣いていた君の横顔を、僕は一生忘れないだろう。

 いったい君にどんな辛いことがあったのか?

 もし時を戻せるのなら、僕は君を救えただろうか?

 もしあの時、君の足元が崩れなければ、僕たちは今頃二人で裸でベッドの中にいたのだろうか?


 分からない。

 聞けなかったことや後悔は星の数ほどあるけれど、僕にもうそれを聞く手段はない、やり直す手段はない。

 今更調べるのも野暮だろう。

 こういうことは、君の口から君の声で直接聞かないと意味がないんだ。


千夏ちなつっ…… 君に会いたい……」


 君に会いたい。

 また会って抱きしめてキスをしたい。

 ゾンビだっていい幽霊だっていい、たった10分だけでも会いたい。

 僕は君にちゃんと別れを言えなかった。

 愛の言葉も慰めも感謝も何も伝えられていないのだ。

 君の身体に、心に、ちゃんと触れられないまま終わってしまった。


千夏ちなつっ、好きだ……」


 二種類の涙が同時に溢れた。


 懐かしくって切なくて。


 僕の頭の中の世界。


 千夏と二人だけの世界が色褪せていく。


「…………はぁ………ふーー……」


 帰ってきた現実世界はじわじわと蒸し暑くて、遠くからはミーンミンと蝉の声が届いていた。


 部屋のなか、一人っきりで汗びっしょり。

 しばらく僕は茫然としながら、天井の電球が小さく揺れるのを眺めていた。


「疲れた……」


 僕はひさしぶりに自分の部屋で落ち着くことができた。

 今はしばらく、この布団のなかでしかばねになっていたかった。


 どれだけまた会いたいと願っても、死んだ千夏ちなつとまた会える奇跡なんて起きる筈もなくて。

 もうこの世に千夏ちなつはいないのだから。

 僕は新しい生きる理由を見つけ出さないといけない。


 今はまだ母さんがくれる愛情が、僕の死なない理由だけど。

 いずれは僕自身が誰かや何かを愛することを、僕の生きる理由にしなくちゃいけなんだと思う。


 あぁそうか。

 逆に言えば、僕を愛することが母さんの生きる理由、なのかもしれない……

 だとすれば自殺なんて、僕は母さんになんて残酷な運命をつきつけようとしていたのだろう……

 ……あの時死ななくて、本当に良かった。


 あの夜、千夏ちなつが僕の命を守ってくれたのだ。

 お医者さんいわく、僕は千夏ちなつの身体を下敷きにしたお陰で一命をとりとめたらしい。

 千夏ちなつが自身を犠牲にして僕を助けてくれた。

 意図的かどうかは分からないけれど、咄嗟の判断で僕を救おうとするなんてお人好しで他人想いな千夏ちなつらしい。


 思い出したら、また泣き出しそうになる。


 ありがとう、千夏ちなつ

 ……だなんて素直には思えなくて、後悔や切なさがぐるぐると頭を駆け回っていた。

 

 もういい。疲れた。暑い。

 いまは何も考えたくない。


 僕は最後に残された力を振り絞って立ち上がり、エアコンのリモコンの"冷房"ボタンを押した。


 ひんやりとした冷気のなかで、熱の余韻にひたりながら、僕はうとうとと目を閉じた。

 

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