「空を飛ぶ」


「ほら、うちの手ぇ握って、立ちんさい」


 千夏ちなつに言われるがままに、千夏ちなつの伸ばした手を握り、僕は立ち上がった。

 千夏ちなつに手を引かれながら、僕たちは崖の近くへと歩いていく。


「も、もう飛び降りるのか……?」


 断崖絶壁が目の前に迫って、僕の胸中では焦りや躊躇いが急激に膨らんでいった。


千夏ちなつ……?」


 あと一歩踏み出せば、真っ逆さまという場所で、

 千夏ちなつはぴたりと足を止めた。


「これで、いつでも飛び降りれるけん…… あきらくん、少しだけ私と話さん?」


 千夏ちなつはそう言って、崖の端っこに腰を降ろした。

 千夏ちなつの白いふとももが、崖の向こうの虚空へと放り出される。


「足元が真っ暗やねぇ……空飛んどるみたい。ふふ、なんだか楽しゅうなってきたのぅ」


 僕も真似して腰を降ろした。

 両足の先には断崖絶壁、びゅびゅうと夜風が吹き上がる。


「……すげぇ……高ぇ……さすがに震えるなぁ……」


 僕は心底身震いしていた。

 下を見下ろせば、崖の下端は闇に消えている。


「ふははっ。今から一緒に死ぬっちゅうんに、何を今更怖がっとんの?」


 千夏ちなつは、乾いた声で笑い飛ばした。


「あーぁ、懐かしいのぉ。もう6年も前になるんか。

 ……うちはあの日から、あきらくんにまた会いたいって、ずっと思っとったんよ……」


 寂しそうな声が、夜風に流されて消えていく。


「……あのさ」


 僕は思い切って、口を開いた。


「……千夏ちなつはどうして、ここから飛び降りようと思ったんだ?」


 思い切って尋ねた。変わり果ててしまった千夏ちなつ

 あの頃の君は、悩みとは無縁みたいな無邪気さで、何もかも笑い飛ばしていた女の子だったじゃないか。


「…………」


 千夏ちなつは、ふいと僕から目を逸らした。


「…………ごめん、うち、あきらくんには、どうしても言えん……

 ……知られとうないけぇ…… あきらくんには……うちの弱いとこ……」


 俯いて表情を隠しながら、泣きそうな声を絞り出している千夏ちなつがいた。


「……そうか……辛かったんだな……

 死ぬほど苦しかったんだよな、分かるよ……」


 それだけは、理解できた。

 僕は震える千夏ちなつの肩を、包みこむように抱きしめた。


「う”ん……」


 千夏ちなつの身体は暖かかった。彼女の心臓はまだ動いていたのだ。

 少しでも千夏ちなつの心を温めたくて、僕は彼女を抱きしめて、彼女の頭をゆっくりと撫でた。


「……う”ん、う”ん……うえ”ぇぇえぇぇぇぇんっっ……うぇぇぇぇぇぇぇっ……」


 千夏ちなつの泣く声は、子どもの頃とちっとも変わってなくて、僕は安心すると同時に、くすりと笑ってしまった。

 やがてすぐに、僕の目からも、涙が溢れて止まらなくなった。


「僕も……僕もずっと、千夏ちなつちゃんに会いたかったんだ……

 また千夏ちなつちゃんに会えて、すごく嬉しい……

 今まで死なないでいてくれてありがとう、千夏ちなつっ……」


 千夏ちなつの両手が、僕の背中へ回ってくる。

 お互いがぐちゃぐちゃに泣きながら、僕たちは確かに触れ合っていて、互いの体温を感じあっていた。


「……うち、もう何もわからんよ…… 今日はここで、本気で死ぬって決めてきたけんやけどなぁ……」


 弱々しく、千夏ちなつが僕の胸で泣く。


「僕は……やっぱり生きたいよ。千夏ちなつと一緒なら、これからも生きていける気がするた……

 僕は、千夏ちなつが心の底から笑うのを、毎日のように見ていたい……」


 僕は千夏ちなつの中に、生きる意味を見出してしまった。

 僕にとっては穂風千夏ほかぜちなつが、これからを生きる意味なんだ。


 僕は千夏ちなつの手を握りながら、ゆっくりと立ち上がった。


「……ほら、一緒に引き返そうよ。

 ……それから山を降りるんだ。

 これからのことは、これからゆっくり決めれば良い」


 千夏ちなつは美しい瞳で僕を見上げて、立ち上がろうとした。

 そのときだった。


「え?」


 ガラリ、と、千夏ちなつの足元が崩れた。

 足を踏み外し、崖の向こうへと傾いていく千夏ちなつの身体。


「危ない!」


 僕は咄嗟に飛び出した。

 千夏ちなつの手を握り、力のかぎり引っ張った。

 グンと互いの身体が振られて、千夏ちなつの身体が戻ってくる。

 しかし、その反動で、僕の身体は崖の向こうへとまっしぐらだった。


(あぁ、良かった。

 千夏ちなつが生きて、僕が死ぬ。

 最後に千夏ちなつに会えて良かった。

 これは僕の傲慢だけど、千夏ちなつにはどうかこれからも、幸せに生きて欲しんだ)


 名残惜しく思いつつも、千夏ちなつの腕を手放して、今まさに真っ逆さまに落ちようというとき、


 僕の腕は、今度は千夏ちなつの手で、思いっきり掴まれた。


「だめっ!!」


 千夏ちなつは大声を上げて、僕に向かって飛び込んできた。

 必死に両手を伸ばしあって、互いの身体を手繰り寄せる。


 重力が加速して、一瞬の浮遊感に包まれて。

 心地良くて、恐ろしい。

 目の前には千夏の顔があった。

 互いのおでことおでこがゴツンとぶつかり、涙がパチンと弾け飛ぶ。


 天と地がひっくり返る直前。

 最後の刹那。

 僕と千夏ちなつの唇は、たしかに触れ合っていたように思う。


 ………………


 …………


 ……


 ……………。


 目を覚ますと、白いタイルの天井があった。

 頭の中でぐわんぐわんと幻聴が鳴る。

 いったい何が……ここは、どこだ……?


「……ぁ……? が……」


 声を出してみたものの、喉がしびれるように痛い。

 うめき声を漏らすことしか出来なかった。身体が重い、動かせない。


「……え? あきら!? 目ぇ醒めたんか!?」


 素っ頓狂な女の子の声がして、視界に茶髪の女の子の顔が飛び込んできた。


「……誰……?」


 知り合いにこんな可愛い女の子いたっけ、

 と、記憶を思い出そうとしたときだった。

 自殺しようとしていたこと、あの夜に千夏ちなつと会ったこと、あの夜の全てが鮮明に脳内に呼び起こされていった。


「うちは明美あけみ七河明美ななかわあけみじゃ。覚えとらんのん?」


千夏ちなつは……!? 千夏ちなつは今どこにいるんだ……!?」


 僕は掠れた声で必死に叫んだ。

 あの夜、あれからどうなった、ここは病院か?

 生きてるのか、僕は、

 なら、千夏ちなつは……


千夏ちなつちゃんは死んでしもうた。葬式が済んだんがつい一昨日のことや。

 あきらくん、なして二人して飛び降りよったん……?

 ……あきらくんが何とか一命を取り留めたんは、千夏ちなつちゃんが下敷きになってくれたお陰やって、お医者さんがゆうとったよ」


「……え……?」


 千夏ちなつが死んだ。

 ……そうか、やはり、そうなのか……

 何故、どうして、僕だけ生き残って…


 目の前の彼女は今、七河明美ななかわあけみと名乗っていた。

 七河明美ななかわあけみちゃん。僕のもう一人の幼馴染は、泣きそうな目で僕を見ていた。


「……うちは先生とあきらのお母さんをよんでくるけぇ、ほいで大人しく待っちょって。変な真似せんといてや! 約束やけんな!」


 明美あけみは強い口調でそう言い残し、小走りで病室の外へと出て行った。


 





 

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