「お母さんと僕」


 あぁ、消えたい。今すぐ死にたい。最悪だ。

 この身体じゃ、逃げようにも逃げられない。

 生き地獄だ……くそぉ。

 今すぐ死ねる方法はないか?


 考えている内に、慌ただしい足音が戻ってきた。

 ……僕は病室のベッドに縮こまり、できる限り耳を塞いだ。


「……あきらっ…… 目が、覚めたんか……?」


 今一番出会いたくなかったお母さんの声がした。

 ここで無視を続けるのも不自然だ。

 僕は全身に震えを感じながら、母さんの方を振り向いた。


「……母さん……ごめんなさい……」


 僕は誤魔化すように、嘘の言葉で謝った。

 でもこの言葉は、ある意味僕の本心だった。


(うまく死ねなくてごめんなさい。僕は死ぬのも下手くそだから、またお母さんに迷惑をかけてしまった)


 病気の身体で女手ひとつで、母さんは寝る間も惜しんで安月給で働いている。

 それは全て、僕のためだ。

 僕が学校にいくために、将来良い就職先につくために、

 母さんは己の全てを尽くしてくれていた。

 母さんはまるで、自分自信を削るみたいに、僕のためだけに生きている。


「……良かったぁ。良かったぁ。あきらが生きててくれて、本当に良かったわぁぁあぁっ……」


 母さんは涙ながらに、病床の僕に縋りついて泣いた。

 やめてくれ、もう止めてくれよ母さん。

 僕の心配なんかしないでくれっ……


 最初は僕も、頑張ったさ。

 中学二年生の頃、父さんが亡くなって、うちは突然貧乏になった。 

 お母さんと僕だけの母子家庭。お爺ちゃんやお婆ちゃんも既に身体が弱くって、頼れる人は居なかった。


 高校受験を控えていた僕は、まるで別人みたいに心を入れ替えた。

 家の家事、洗濯や料理や掃除などを手伝うようになった。

 学校の授業も真剣に聞いて、友達と遊ぶ暇も惜しんで勉強するようになった。

 ……5年間続けてきたサッカー部もやめて、僕は今までと別人みたいに真面目になった。


 最初は、頑張ろうと思ったんだ。

 僕が身体の弱いお母さんを支えてやるんだ、なんて決意して、

 母さんの期待に応えるようと、生まれ変わったみたいに寝る間も惜しんで勉強をした。

 中学生はアルバイトができない。だから勉強を頑張って、アルバイトが許されている偏差値の高い高校に行って、勉強をしながら稼ぐんだ。

 それからいい大学に行って、いい会社に就職して、

 頑張ってお金を稼ぐんだ。


 そうやって、僕は死にものぐるいで頑張った。

 毎日辛くて苦しかったけれど、将来のためだと自分に言い聞かせて、僕は全力で走り続けた。

 そして三年生、3月。高校受験の本番で、

 僕は第一志望の高校に落ちた。

 ……なんてバカなことをしたんだ、僕は、

 高望みをしすぎてしまった。

 直近の模試が良すぎたせいか。僕は本番の問題でパニックになって焦りすぎて、ミスを連発してしまった。

 ……僕の県では公立高校は一つしか受けられない。それが不合格だった場合、私立高校に行かざるをえない。

 ……貧乏家庭向けの奨学金はいちおう受理されたけれど、家計が苦しいのには変わりない。

 でも、高校に行かない選択肢はなかった。

 必死に働く母さんのためにも、僕は早く自立した大人にならなくちゃいけなかった。

 母さんにこれ以上迷惑をかけたくなかった。母さんには自分自信のために生きて欲しかった。僕がいるせいで母さんがお金に苦しんでいるのは、耐えられなかったのだ。


 僕は高校に進学した。

 高い学費を払うってもらっている分、より一層頑張らなくちゃいけないと思った。

 アルバイトにも挑戦した。スーパーや飲食店の店員をかけもった。自分でお金を稼ぐ感覚は凄く嬉しかったのと同時に、お金を稼ぐことの大変さ。1000円札の重みを思い知った。


 私立の高校は遠かった。登校に1時間半、交通費は片道500円。……交通ICカードを改札に通すたびに、お母さんのお金が消えていった。

 その頃から、僕は少しずつ、病気になっていった。

 いつの間にか、僕にとって生きることは、とても苦しいものに変わっていた。

 学校へ行くのが憂鬱だった。もっともっと頑張らなきゃと思うと同時に、もう頑張りたくないという思いが強まっていった。

 ……こんなんじゃ駄目だ。

 怠けようとする自分に無知を打って、吐きそうになりながら、僕はゴールのない苦しみのマラソンを走り続けていった。


 そして遂に、限界が来た。

 どう頑張っても、布団から起き上がれない。

 学校の教科書を見るだけで、頭痛がして吐き気がした。


 僕は……学校に行けなくなった。

 そんな自分が許せなくって、死にたくなるほど辛かった。

 でも、もう自分じゃどうにもならないのだ。

 僕がどれだけ頑張ろうとしても、身体はいうことを聞いてくれなかった。


 アルバイトにも行けなくなった。勉強も全く出来なくなかった。

 それどころか、自分の部屋でベッドの上で、寝返りをうつのさえ一苦労だった。


 お母さんの稼いだお金が、お母さんの人生の時間が、僕のために溶けていく。

 それが僕にとって地獄のように辛かった。


 なんでそんな僕は、こんなに駄目な奴なんだ。

 今まで必死に自分の限界を超えて頑張ってきたのに……

 僕は何にも、母さんの力になれなかった。

 僕は出来損ないの人間だ。親不孝者だ。

 僕は母さんの期待には応えられない。

 死ぬまで母さんの足を引っ張ってしまう……


 ずっと苦しかった。

 苦しいことしか起こらなかった。

 高校に入れば、少しは楽できることを期待して、僕は必死で頑張ったけれど…… 

高校に入ったら、すぐ向こうには大学受験があって、休む暇なんて与えられない。

 一生必死に苦しんで、頑張り続ける人生しかないのかと、絶望した。


 そんな救いようのない未来なら、いっそ、早く死んだほうがマシなんじゃないかと思った。


 そうすれば、僕は生きる苦しみから解放されて、母さんも自分のために人生を生きられるから。


………………


…………


……


「……あきら……どうして自殺なんて……馬鹿な真似をしたんや……?」


 病室、駆けつけてきた母さんが、泣きそうな声でそう言った。

 どうして、自殺しようと思ったのか。

 それは……


「……母さんに、これ以上……迷惑をかけたくなかったんだ……

 ……僕はっ……母さんの期待に応えられないっ……

 母さんを楽させるには、もう死ぬしかなかったんだっ……!」


 僕はガラガラの声で、絞り出すように告白した。

 ……恥ずかしくて、惨めで、ボロボロと涙が溢れてきた。

 唇を噛み締めて、強がろうとしたけれど、全身が震えて止まらない……

 怖かった。情けなかった。感情が溢れて止まらなかった。

 でも……

 全てを吐き出した瞬間に、今までずっと心の中を支配していた闇が溶けて、一気に軽くなった感覚がした。


「……馬鹿や、あんたは本当に馬鹿やあきらっ!! 迷惑なんて思っとるわけないやろうがっ!」

 

 お母さんに、久しぶりに叱られた。

 そして、久しぶりに、強く強く抱きしめられた。


「……そこまで思いつめさせて、悪かったっ……お母さんが悪かったんよ……ごめんな、あきらっ……

 いっぱいいっぱい、無理させてしもうたな…… 死にたくなるほど……辛かったんやなぁ……」


 母さんは、僕が欲しかった言葉を的確に口にしてくれた。

 そうだ。僕は辛かったのだ。死にたくなるほど苦しかった。

 こうやって、年甲斐もなく、お母さんに抱きしめてもらいたかった。

 ……久しぶりに、人の温かみを実感していた。


「……あきらが頑張ってくれとったのは、お母さんとっても嬉しかったけど、でもな……

 あきら、大きくなって、全然笑わんくなったやろ?」


「……うん……」


「お母さんはな。……あきらが幸せそうにしとるのを見るのが一番幸せなんよ。

 ……あきらの笑ってる顔を見るだけで、あぁ、生きてて良かったって思えるの……」


「……うん……」


「勉強なんて出来なくてもいい。お金を稼げなくたって、学校に行けなかったって、

 そんなのどうだって構やしないさ……

 あきらが生きてくれてるだけで良い。それだけでお母さんは幸せなんよ。

 あきらが無事に生きとるだけで、母さんは十分幸せを貰っとるから……

 迷惑だなんて思ったこと、今まで一度もあるもんか!」


「……ごめんなさい……」


 僕は、嗚咽しながら懺悔していた。


「……ごめんなさい……お母さん。

 自殺なんてもう絶対しないから、馬鹿なことしてごめんなさい……」


 僕は母親にすがりつくようにぐちゃぐちゃに泣いた。

 事務的な会話はいつも交わしていたけれど、

 僕は久しぶりに、母親と会話をした気がした。


 しばらくして、互いの涙が落ち着いた頃、

 白衣を着たお医者さんと七河明美ななかわあけみさんが、病室へと入ってきた。


 僕たちに気を使って、外で待っていてくれたのだろうか?


 七河明美ななかわあけみさんの瞳がほのかに赤くなっているのに気づいた僕は、恥ずかしくなって窓のむこうの青空を見た。

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