壱章 邂逅

「崖っぷちにて」

※注意※

 ここは第一話ではなく第二話です。

─────


【一年前】


ー遺書ー


 ごめんなさい、お母さん。

 僕はもう生きるのが耐えられません。

 お母さんに不満がある訳じゃないんです。

 お母さんには感謝しています。毎日僕のためにお金を稼いで、ご飯を作って置いててくれて、お母さんのお陰で僕は生きられています。

 でも、もう僕は、お母さんの優しさに耐えられないんです。

 僕は出来損ないだから、お母さんの期待に応えられません。どんなに励まされても、頑張る気力が沸かないんです。

 このまま僕が生きていたら、お母さんを死ぬまで苦労させてしまいます。

 僕がお母さんを楽にするためにできることは、もう死ぬしかないんです。

 先立つ不幸をお許しください。どうかお母さんは幸せに生きてください。


 森下彰もりしたあきら

――――――――


 机の引き出しの中に遺書を残して、オンボロアパートを見納めて、僕は半年ぶりに外に出た。


 もう迷いはない。後戻りなんてしない。


 ガタン、ゴトン、と車両が揺れる。

 お母さんから受け取ったお金で新幹線の切符を買って、僕は6年ぶりに故郷へと向かっていた。

 気分転換のために、祖父の家に行きたいと言ったら、お母さんは涙ながらにお金を出してくれた。

 僕が家に引きこもってから実に三ヶ月ぶりの外出である。

 何も知らない母さんは、息子の久々の外出に歓喜していた。


 僕にとっては、母さんの優しさがたまらなく痛かった。

 誰にも迷惑をかけたくなかった。

 この世界とは違うどこかに消えてしまいたかった。


 

 新幹線からバスに乗り換えて、目的のバス停で降車した。

 懐かしい景色だ。僕は泣きそうになった。

 夕方5時。空は茜色に染まり、赤とんぼの影が田んぼを飛び交う。


 僕が小学3年生の頃まで暮らしていた街。昔とほとんど変わらなかった。6年前と記憶が重なり、新鮮な色で上書きされる。


 死ぬ前に一度この景色が見たかった。

 みはな保育所、佐見第一小学校、お爺ちゃんの家、カブトムシの出る森、ザリガニ池、山の上の秘密基地……

 最後に、目に焼き付けたかたった。


 虫の鳴く道路を、長く長く歩いていくと、山の中腹に古い神社が見えた。

 あの辺りに、僕たちの家があった。

 学校から帰ったあと日が沈むまで、三人で一緒に山を走り回っていた。

 穂風千夏ほかぜちなつちゃんと七河明美ななかわあけみちゃん、

 近所に住む二人の幼馴染と、田んぼのあぜ道を駆け回った記憶が……景色に重なって蘇ってくる。

 ここはまるで天国だった。

 あの引っ越しがなかったら、僕にも明るい未来があったのだろうか……?


 少し想像して、僕はすぐに首を振った。

 穂風千夏ほかげちなつちゃんと七河明美ななかわあけみちゃん、可愛い女の子二人と仲が良かったのは、ただ家が近かったからだけだ。

 僕が特別なんじゃない。


 僕の人生の絶頂期は幼稚園児の頃だった。

 それから大人になるにつれて、僕はだんだん生きるのが苦しくなっていった。

 女の子たちが嘘をつくようになって、僕たちも自分を飾るようになって、人間関係がどんどんと複雑に難しくなっていった。


 あの二人は今、どうしているだろうか?

 あの頃と変わらず、純粋な女の子のままだろうか?


 ……いいや、もうどうだっていい。


 もう過去には戻れない。

 いまさらやり直すことは出来ない。


 石階段をコツコツと、山道を登っていく。

 目的地は、立入禁止になっている展望台である。

 崖を見下ろす昔の絶景スポットである。巷では自殺スポットとして有名だった。


 僕は人生の最後に、あの崖から飛び降りること決めた。

 小さな頃から空を飛んでみたかったのだ。

 そのまま、誰の手も届かない遠くへ行ってしまいたかった。


 やがて日は沈み、辺りは漆黒に包まれた。

 僕はスマホの明かりを頼りに石段を登り続けた。

 街明かりのない山道の闇は、東京の夜とは比べ物にならない。


 ふと見上げれば、夜空一面が宝石をばら撒いたように無数の星々に囲まれた。

 天の川銀河が空を二つに分割し、少し欠けた月が東の空に浮かんでいた。


 最高のシュチュエーションだ。

 秋の夜風に頬を触られながら、僕は崖へと辿り着いた。

 広がる絶景、飛び交う蛍と満点の星空。

 まるで、地球に溶けて一体となっていくような感覚だった。


「あぁ……」


 僕は涙を流していた。

 これほど素晴らしい景色に見送られるならば、ここで死ぬのも悪くない。

 やっと解放されるんだ。

 あの崖の向こうでは、もう何も悩まなくていい、何も苦しまなくて良い、真の自由が待っているんだ。


「誰っ!?」


 ………っっ!?


 前方から声がした。

 僕は驚いて心臓が飛び出しそうになった。

 腰が砕けて尻もちをつく。

 女の子の声だった。

 慌てて引き攣った顔を上げると、目の前には白いドレスを着た裸足の女性が立っていた。


「………ひ、ひぃぃ、お化けぇぇ……」


 僕は恐怖で全身が痙攣していた。

 逃げようにも逃げられない。

 まともな大声すら出せない、掠れたような情けない声を漏らすことしかできない。

 そういえば聞いたことがある。この崖で昔自殺した幽霊、心霊スポットとしても有名だったじゃないか!


「……邪魔せんで! 止めようとしたって無駄じゃけぇ! うちは本気なんや!」


 切羽詰まったような可愛いらしい方言。

 僕はその声色にどこか引っかかるところがあって、スマホの光を幽霊にあてた。


「……やっ!」


 眩しさに目を細める幽霊。

 その顔には見覚えがあった。

 背も伸びて、顔立ちも大人びているけど間違いない。


千夏ちなつちゃん……? 穂風千夏ほかぜちなつなのか……?」


 見間違えるはずがない。

 いま目の前で怯んでいるのは、僕の初恋の女の子、穂風千夏ほかぜちなつに違いなかった。


「だ、だれ!?……なしてうちの名前をしっとるん……?」


「僕は、森下彰もりしたあきらだ。覚えてるか?

 小学校3年生まで同級生で、よく一緒に遊んでいた男子だ……」


あきらくん……? 嘘……嘘や……なしてあきらくんがここにおるん……?」


 千夏ちなつは崩れ落ちるように土に膝を突き、目を泳がせて動転していた。


「…………僕は、この崖から飛び降りに来たんだが、

 まさか、千夏ちなつもそうなのか……?」


 半信半疑で問いかけた。

 思い出と記憶が、目の前の現実を否定していた。

 あんなに明るくて、クラスの人気者で、自殺とは無縁そうな女の子だったのに……どうして?


「……まぁ……そーじゃね。うん…… うちもここから飛び降りに来たけん……」


 穂風千夏ほかぜちなつはバツが悪そうに、痛々しいほど歪んだ泣き顔を僕に向けた。

 千夏のこんな表情なんて、僕の記憶に存在しない。

 千夏は半歩僕に近づいて、震える両手で僕の手を握りしめた。


「……ねぇ、あきらくん、うちと一緒に、この世界から逃げようよ?」


 涙をぽろぽろと流しながら、震える唇とぎこちない笑顔で彼女は言った。


 僕の全身に鳥肌がたっていた。


「……そう、だね……一緒に……」


 大きくなって再会した千夏は凄く美人で、その表情は痛々しくて、

 この世界から逃げる、その甘美な響きに心を震わせながら、

 でも……本当に、これで……

 僕はどこか、かすかな違和感を感じていた。

 もっと……別の道が……

 

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