第4話 十月・シュレディンガーの箱
久しぶりに伯父さんが帰って来てお店を開けると言うので、私は朝からクッキーを焼いていたのです。
久しぶりの伯父さんはお腹周りがかなりふくよかに……シャツのボタンは飛びそうになっているし、ひげで誤魔化しているけれど顎もほんのり二重顎。
「美代子、伯父さんにあんまり物食べさせたら駄目よ?見たでしょあの体」
洗濯物を終えて戻ってきたお母さんが、大げさにため息なんてついた。
「まるで酒樽みたいになって帰って来ちゃって」
「えへへ、今回のは糖質制限のダイエットクッキーなのです。甘さ控えめどころか全然甘くないし、バターも極限まで減らしてある」
オーブンから焼き上がったクッキーを出す。半分は濃い茶色で、こちらも甘さ控えめのチョコパウダーを入れてあるのだ。見た目はいつものクッキーと変わらず焼けたけど、味は全然あっさり風味になってる。
「あら案外美味しいのね?甘くなくても」
お母さんが一枚食べてみてそんなことを言う。
「でしょでしょ。あとでお店に持って行くわ」
クッキーバスケットにラップ紙を敷いて、そこにざらざらと冷めかけのクッキーを流し入れる。あ、五個づつくらいのラッピングの方が良かったかな?まさか伯父さんこれ一気に全部食べないよね?ちょっと不安だけど、私はそのまま行くことにした。
久しぶりの伯父さんのお店に心が弾んで、細かいことはどうでもいいや!てなっちゃったのだ。わはは。
「う、うん美味しいね。美味しいけど、いつものクッキーと違わないかい?」
さすがに伯父さんは気づく。そりゃそうですよ、もう何年にも渡って私のクッキーで餌付けして来たんだもの。味の違いくらい、気づいて当然です。
「今日のはダイエットクッキーです。糖質と脂肪分を極限まで減らしてます」
「ええーいつものが食べたいなぁ」
「駄目だよ、伯父さん独り身なんだから、不摂生したら成人病で大変になっちゃうってお母さんが言ってたよ」
「不摂生するために独り身でいるんだがなぁ」
ぽりぽりと頭を掻いた伯父さんはぽん、と手を叩いてキッチンに向かい、冷蔵庫から一つの瓶を持って来て、蓋を開けてテーブルの上に置いた。
「ちょっと古いがまだ行けるはずだ」
クッキーを一枚手に取って、瓶の中の鮮やかな赤いどろどろを少し付けて口に運ぶ伯父さん。咀嚼する。その顔が至福の笑顔になる。
「やっぱりだ、最高に合う」
「なにその瓶」
「いちごジャム」
「えーっ、糖質制限の意味がなーい!」
「脂質の制限は生きてるんだからいいじゃないか。美代子もつけて食べなさい」
ちぇ、人の努力を無にしくさってからに。と思いつつも、私もジャムをクッキーに乗せて食べてみる。あら美味しい!
「こういうのもいいだろ」
「いいけどダイエットクッキーの意味が半減した気がするよ」
「ははは、ティータイムは楽しくなけりゃ」
それから何枚かそうして食べた頃に、伯父さんは変な箱をテーブルの下から取り出した。
「なにそれ」
「今回の旅行で仕入れて来たんだがね、売り物にするよりはこうして楽しんだ方がいいかなと思って」
「楽しむ?」
おほん、と伯父さんは咳払いをした。
「美代子はシュレディンガーの猫って知ってるかい?」
「ああ、箱の中の猫が生きてるか死んでるか、観察するまで判らないよっていう」
「まあ大ざっぱにはそんな感じか。で、これはシュレディンガーの箱」
「箱?」
伯父さんは箱の蓋を開ける。何の変哲もない木箱にしか見えない。
「つまり、中に入れたものが観測するまでどういう状態なのか判らないという箱なんだ」
「言ってる意味がよく判らない」
「だろうね」
伯父さんはいちごジャムの瓶に蓋をすると、箱の中に入れて箱も閉じた。
「つまりこれで、箱の中のいちごジャムは観測するまでどうなっているのかは不明なわけ」
「でも今まで食べてたのを入れたんだから、どうなっているとか言われても」
「まあそうだよね」
もういいかな、と伯父さんは箱から瓶を取り出して、また蓋を開けた。あらっ?何か香りが違う気がする。叔父さんはにこにこして、クッキーにジャムを付けてぱくっと食べた。
「うんうまい。これはラズベリー、きいちごのジャムだ」
「えっ?」
私も急いでクッキーを手にし、ジャムの瓶に突っ込んでから口に運ぶ。あっ、風味が違う!ちょっと苦味も入って、でも確かにさっきまでのいちごジャムと違う!
「とまぁこういう風に、ちょっとだけ観測結果が変わる箱なんだ」
「えええこれ面白いね!ちょうだい!」
「いきなり無茶言うね」
「同好会の活動にぴったりなんだもん」
「結構高かったから、あげるのは無理。一日だけ貸してあげる」
「……というわけで借りて来たのが、この箱なんだよ」
私の紹介に、怪訝な顔をする英美里。そりゃそうだ、実際試してみないとどういうことなのか理解できないもんね。
「へええ、面白そうな箱だね」
「うんうん、面白いんだよこれ」
さすが更科くんは否定からは入らない。何でも疑ってかかる英美里とは正反対。
「で、何試そうか。インスタントコーヒー入れたら、ココアになったよ」
「どういう基準で変わるんだろうね?じゃあこれ」
更科くんがポケットから取り出したのは、単三型のマンガン電池。ごく普通の乾電池ですね。受け取って箱の中に入れて、蓋をする。
「爆発とかしないでしょうね?」
「あはは、たぶんしないと思うよ」
英美里はものすごーく強い疑いの眼差しを私と箱に向ける。まぁ結果は見てのお楽しみ!私は蓋を開けた!
「ん?」
電池に印刷されているデザインと色が変わってる。
「あはは、マンガン電池がアルカリ電池になった」
「なんじゃそりゃ!ただの手品か!」
英美里は激怒して箱を手に取り、ぐるぐると天地を回して改める。どこかに種がないかを必死に探しているんですね、判ります。
「なによこれ、ただの木箱じゃない」
「種も仕掛けもないよ。伯父さんが言うには、南米の部族の呪術なんだって。現地では『取り替えっこの箱』って呼んでたものを特別に作ってもらったとか」
「むむーん、なんか納得行かないわね」
「英美里も何か入れてみたら?」
ふむ、と英美里が取り出したのは百パーセントぶどうジュースの瓶。
「ぶどうジュースを入れたとして、ぶどう部分が変わるのかジュースの部分が変わるのか」
「入れて開けてのお楽しみ」
さてどうなるかな?蓋をしてしばらく待って、開けてみた。瓶の形に変わりはないね。色も別に変ってないっぽいね。英美里は瓶を取り出すと、蓋を開けておもむろにぐびっと一口。
「ん?」
桜色の舌で可愛い唇をぺろり。そして無言で瓶を更科くんに突き出す。更科くんはそれを受け取って、一口。わわっ、間接キス!?
「うーん?」
そして更科くんは、そのまま瓶を私に向かって……えええほんとに!?それってそれって間接キスですよ!?わわわ、耳が熱くなる。英美里を見ると、早くなさいよみたいにジト目をしている。ああそうよね、これは流れだもんね、意識しないでさっと役得を享受した方がいいよねいいよねいいよね。
私は震える手で瓶を受け取って、思い切って一口飲む。ああ更科くんと間接キスしちゃった!英美里はどうでもいいや、でも間接キスって一方通行で嬉しいけれど嬉しくない部分もあるのね。
「なんかさ、甘みも渋味も強くなってない?」
「そうだね、普通のぶどうよりも癖がある感じな気がする。美代子ちゃんはどう思う?」
「そ、そうね。やっぱり双方向でないと嬉しくないかなって」
「ん?」
しまった心の声が出てしまった。
「ああ、いやいやいや、これたぶん山ぶどうのジュースになってるね」
「なるほど山ぶどうか。そう言われれば、そんな気もするわね」
「いちごがきいちごになったのと同じ感じかな」
英美里は残りのジュースをぐびぐびと飲み干した。今になって、ジュースの味が口の中に蘇ってきた。甘酸っぱいな、やっぱりレモンの味というわけにはいかないか。そういうのは本番じゃないと。
「例えばさ、安いマグロの赤身のお寿司とか入れたら、最上級の大トロになったりするかな」
「キハダがメバチになるくらいだと思うよ、電池もそんなもんだったし」
「夢がない」
なんかがっくりしてる英美里。ずいぶん即物的な夢だ。
「ちなみに昨日、ショートケーキ入れたらバタークリームのケーキになったよ」
「不思議は不思議で面白いけど、この不思議さってちょーっと微妙」
「いいんじゃない?これくらいが僕たちにはぴったりだよ」
そうよね更科くん!ちょっとした、ささやかな不思議でいいんだよね!
「でも美代子の伯父さんのお店っていいわね、こういうのがゴロゴロしてるんでしょ?」
「ゴロゴロはしてないよ、ほとんどはただのガラクタだもの。しかもあちこち飛び回ってて、全然お店開けないし」
「ふーん。あたしもそういうツテをどっかで拾わないとなぁ。更科、あんたちょっと何を箱に入れた?」
あれ?更科くん?
「うん、ちょうどそこに冬眠場所を探してる風なヒキガエルがいたから」
「開けるなー!!」
「捨ててきてー!!」
私と英美里の絶叫が、空き教室に響いた。
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