第3話 華奢な背中




 ★


 シャワーの音がなだらかに響く。それを背に、俺はのんびり夕食の支度をしていた。メニューは無難にカレーにしよう。真子さんの口に合うかは分からないが、余程の失敗をしなければ、まあまあ美味しく食べられるだろう。それがカレーというものだ。


「すいません、鞄とって貰えますか?」


 シャワールームから真子さんが呼ぶ。俺は真子さんの鞄を手に、シャワールームへと向かう。


「ここに置いとくね」


 ガラス戸越しに声をかけると、真子さんが「はい」と返事をする。が、まったくこっちに顔を向けている風ではない。掏摸ガラスにぼやりと透ける真子さんの華奢な輪郭が、脳幹の奥を刺激する。そういえば、女性を部屋に入れるのはいつ以来だろう。二年、否、三年ぶりか。それ以降も関係を持った人はいたのだが、その人は、俺が肉体労働を始めた途端に去っていった。俺との未来を描けないとかなんとか言われた気がするが、俺もまた、その人との未来を思い描けなかったからお互い様か。

 部屋に戻ってカレーをぐるぐるかき混ぜていると、突然、真子さんが下着姿で飛び出してきた。


「靴を履いてください。逃げますよ」

「え。もう敵が来たのか?」

「はい。中国系が二人、自動車で移動しています。急がないと本当に逃げ遅れますよ!」


 と、真子さんはスーツのズボンを履く。その後ろ姿を見て、俺はピタリと動きを止めた。

 真子さんの背中は傷だらけだったのだ。どれもかなり古い傷だと思われた。硬い棒のような物で力一杯殴られまくったような、見るからに痛々しい傷跡だった。

 俺は真子さんとアパートを出て、警察署横の公園に向かった。二人で公園の屋根付きベンチに座り、缶コーヒーを手に喋りながら時間を潰す。やがて話題は、陰謀論関係の内容となる。真子さんは、意外とすんなり質問に答えてくれた。


「じゃあ、去年フェリーがシージャックされて沈んだ事件に闇の勢力が関わっていたという話は?」

「はい。本当です。その船は悪魔が沈めたんですよ。私も任務でそのフェリーに乗り込んでいて、悪魔に殺されかけましたから」

「マジか。じゃあ、去年熊本で自衛隊が局地戦を戦ったという話については?」

「事実です。あの時自衛隊が動いたのは、とある宇宙人を守る為だったそうです」

「やっぱりか。凄い話だなあ」


 話し込む内に、真子さんがふと立ち上がり、小指の指輪を耳に当てる。


「敵への対処が終わったそうです」


 と、真子さんが手を差し伸べる。

 成る程、指輪が通信機だったのか。でも、ただの通信機という訳ではないのだろうな。俺はまた一つ、コアな情報を入手した。

 俺達はアパートへと戻り、食事をしてまた喋り、やがて眠った。真子さんには、俺の母の部屋を使ってもらうことにした。


 ★


 俺と真子さんとの生活は、三週間近くも続いた。二人で暮らす内に、俺は次第に真子さんが恋人であるかのように錯覚していった。つい、真子さんに甘えて掃除を頼んだり、料理を頼んだりしてしまう。真子さんはとても料理が上手だった。何を作らせても抜群に美味いのだ。俺はコロッケが好きなので、是非作ってくれと頼んでみたのだが、真子さんはよりによってコロッケが苦手であるらしい。脂っこいのが口に合わないとかなんとか。


「じゃあ、何もかもが終わった時にでも、記念に作ってよ」


 そう言うと、真子さんは渋々頷いてくれた。

 真子さんは文句も言わずにずっと俺を守り続け、俺はネットで情報を発信し続けた。俺たちは合計、五回も敵から逃げ出して、敵については全て真子さんのチームメンバーが対処してくれた。

 俺が見えないところで、殆どの問題が片付いていった。ただし、真子さんは一度だけヘマをやらかした。


「じゃあ、今回の避難も終わり。部屋に戻りましょう」


 真子さんが言い、俺は歩き出す。いつも避難場所にしている公園から出ようとした瞬間、俺は後ろ襟を掴まれて引き倒された。

 赤い線が弧を描き、俺の眼前を通過する。遅れてやってきた痛みにより、それが俺の血であることに気がついた。ぐっ。と呻きながら腕を押さえる。目の前には背の高い白人の男がいた。手には三日月形のナイフがある。虚な碧眼には何の感情も浮かんではいない。それが寧ろ恐ろしく感じられた。


「不味い、すぐ逃げて!」


 真子さんは俺の後ろ襟から手を離し、特殊警棒を伸ばしながら突進する。鋭い袈裟斬りがかわされて、反撃のナイフが振り抜かれる。それをギリギリかわし、二人は後方へと飛び退いた。

 耐え難いほどの殺意が場を満たし、肌をひりつかせる。真子さんは、静かに下段の構えを作った。男は脇を締め、ナイフを隠すように握り込む。二人はジリジリ間合いを詰め、必倒の間合いへと達する。

 シッ! と男が踏み込んだ。眼で追えぬ程の横なぎが真子さんの首を狩った、かに思われた刹那──。真子さんは深く身を沈め、男の懐深くへと踏み込んだ!

 ドシリと鈍い音が鳴る。

 カウンターの抜き胴が強かに決まり、男が崩れ落ちる。完全に気を失っていた。ぱらりと黒い物が散る。切られた真子さんの横髪を、夜風が攫っていった。

 やがて、黒塗りの自動車が駆けつけて、以前見た男が殺し屋を車へと押し込んだ。


「ヘマしたな、真子。護衛対象が負傷したぞ」

「ごめんなさい。ナイフは金属製の携帯端末と破調が似てるから、聴き分けられなくて」

「護衛対象が死んでたら、ごめんじゃすまねぇんだぞ?」


 責める男の眼前に、俺は歩み出る。


「俺は大丈夫だ。こんなのかすり傷だろ」


 と、真子さんを弁護する。実際、俺の傷は見た目の割には浅かった。縫う程ではない。それでも真子さんはシュンとして、何時間も落ち込んでいた。


 その夜、俺はベッドに潜り込み、ずっと考え込んでいた。落ち込んだ真子さんの横顔が頭から離れない。思い出すだけで胸を締め付けられる。その気持ちをなんと呼ぶか、俺は知っていた。

 そうか、俺は真子さんが好きなのか。でも、まだちゃんと気持ちを伝えた訳じゃない。明日、夕食の時にでも真子さんに伝えよう。

 内心決めて、俺は眠りに落ちた。


 朝、目を覚ますと真子さんはスーツ姿だった。


「あれ。朝から何処かにでかけるの?」


 なんとなく訊ねると、真子さんはテレビ画面へと視線を移す。朝の情報番組では、とある人気俳優が薬物に手を出した事件が報じられていた。それを見て、俺はピンと来た。

 以前、真子さんから聞いた話によると、表の報道には闇の勢力の暗号が紛れ込んでいるらしい。

 有名人の詐欺詐称事件は金融、経済関係の工作失敗を意味し、有名人の恋愛やセックス関係のスキャンダルは災害系の工作失敗を意味する。有名人の薬物事件は戦争、テロ工作の失敗を意味し、不可解な大量殺人事件とか陰湿な殺人事件については、大きな戦争を起こす工作開始を意味する──。つまり、闇の勢力が戦争かテロの工作に失敗したらしい。多分、真子さんの組織の働きがあってのことだろう。だとしたら、これから追い込みをかけるか反撃工作でも仕掛けるのか。

 大体の事情を察し、俺は真子さんを見送った。真子さんを送り出すついで、俺は近くのスーパーへと出向き、ワインを買った。彼女が帰ってきたら一緒に飲もう。酒の勢いで気持ちを打ち明けるつもりはないが、上手くいったらお祝いをしなければ。

 部屋に帰ると、驚くべきニュースをやっていた。

 アメリカの大統領候補が狙撃され、耳を撃ち抜かれたらしい。どの放送局も、そのニュースでもちきりだった。問題はそれだけではない。

 テーブルの上に、コロッケが置かれていたのである。それが何を意味するか、俺にはよく解っていた。これまで片時も俺の側を離れなかった真子さんが、事情も告げずに部屋を後にした。その時点で気づくべきだったのだ。きっと敵勢力がテロ工作に失敗したことにより、俺を取り巻く状況が変わったのだ。もう、俺を守る必要がなくなったのだろう。でも、信じたくなかった。だから俺は黙々と真子さんの帰りを待った。

 でも、夕方になっても、夜になっても、真子さんは帰って来なかった。

 コロッケに口を付けたのは、夜の十時を過ぎてからだった。呆れる程に美味いのに、変なのだ。何故か妙に苦く感じる。全てが終わりを告げた。アメリカ大統領が撃たれて世界情勢が変わり、あらゆる状況が変わった。もう、俺を殺しに来る奴もいないのに。




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